「分かる」に怒らないでください
「分かる」こと自体に意味は無い
「分かる」マウンティング
人というのは人に何かを教えたい生き物なのだろう。
私がこうして日々、記事を投稿するのも、きっとその一環なのだと思う。
教えるというのは、もちろん親切心であることが多いが、どこか自慢話と化してしまうことも少なくない。
いうなれば、「分かる」マウンティングである。
「分かるか?」
なんて表現でコミュニケーションは開始される。
分からない場合
自分が分からない場合は、まだマシである。
それはこちらとしては新たな知識を獲得できるし、相手としても自分のマウンティングに成功する。
そもそもマウンティングされている時点で、気分がいいものではないのだが、なんとかその場をやり過ごせるのだ。
私の「分かりません」という回答は、どうやら話し手の鼻の穴を大きく膨らませるらしい。
分かる場合
問題は、私の側が「分かる場合」である。
ガキっぽい私とはいえ、もちろん「分かる」とは直接は伝えない。つまり、
「それって、~のことですかね?」
と返事をするようにしている。これが正解かは分からないが。
(相手が明らかにイライラしていることも多いので、返答としては間違っているのかもしれない)
おそらくマウントを取りに行ったのに、まさかの同じレベルで議論されてしまうとは思っていなかったのだろう。
そのような場合は大抵、私が話そうとしていたことを、話し手本人が「あたかも私が何も知らない」という体で話始めるのだが。
また私の悪い癖で、私も私の知っていることを畳みかけるように話してしまうなんてことが起こると、相手は私の意見を否定さえしてくる。
私も悪いとは思うが、自分が「分かっていない」からといって、相手の「分かる」を否定してまで自分の地位を保とうとするのはいかがなものだろうか。
「分かる」に怒らないでください
私自身への自戒も含んでいるが、何を言いたいかと言うと、
「分かる」に怒らないでください
私も若輩者ではあるが、それなりに知識は主体的に取り入れようとしているし、マウンティングしてくる人とも同じ土俵で戦いたいと思っている。
私の心が成熟していれば、
「まぁ、マウンティングにも付き合ってやるか」
なんていう判断ができるのだろうが、この態度も自分としては好ましくないと思っている。
なぜなら、知識のある者同士であれば、より高いレベルでの議論を望むことが出来るからだ。
マウンティングさえしなければ、お互いの知識を認め合い、次なる問いを探すことが出来るはずだからだ。
「分かる」こと自体に意味は無いと私は思っている。
なぜなら、「分からない」を追い求めてこそ、今の「分かる」が力を発揮するからだ。
だからこそ、「分かる」で怒るなんていう低次元のマウンティングは今後一切無くなってほしいのである。
ーーー
アドバイスとマウンティングの境界線って非常にあやふやですよね。
こんなことを考えていると、高田純次さんの
歳とってやっちゃいけないことは「説教」と「昔話」と「自慢話」
という言葉が改めて身に染みるような気がするのです。
歳を取るという現象は、高齢者も20代もすべからく同じですからね。
というわけで、本日はこれにて!
ご清読ありがとうございました!
また明日も宜しくお願い致します!
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