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2番手発見者も評価しませんか? 〜オール巨人さんのミルクボーイへのコメントに心救わた件〜

自分で発見したという感覚は、
学びを続ける大きなモチベーションになるように思います。

せっかくの発見も・・・

「お前の発見なんて、もうどこぞの誰かが既に発見しているよ」

なんて言われてヘコんだこと、皆さんにはありますか?

私は何度かあります。
そのたびに私は言葉を失っているのですが、、、

他方で、発見者本人に指摘されるならまだしも、そうではない奴に指摘されたらば、何か腹すら立ってきます。

ただ昨年末のM-1グランプリの優勝コンビ「ミルクボーイ」にコメントするオール巨人さんを見て

「誰が最初に発見していようと、発見したという事実自体を評価してあげればいいんだ」

と思えるようになりました。

オール巨人さんのミルクボーイ評

さてさて、オール巨人さんのコメントはいかなるものだったのか。
私の心の中で残ったのは、以下のコメントです

「昔、蝶々・雄二先生の運と災難、って漫才がありまして、僕はその進化形
漫才のように思えたんですが、温故知新です…」

(引用:オール巨人さんオフィシャルブログhttps://ameblo.jp/o-rukyojin1116/entry-12565131457.html)

このようなお話はyoutubeカジサックチャンネルをはじめ、多方面で同じような評価をされていました。
私としては、オール巨人さんのコメントをこのように受け取りました↓

オール巨人さんからすれば、ミルクボーイの漫才はすでに存在しているスタイル

しかし、
「もうそれって蝶々・雄二先生が発見してるよ」
と揶揄するのではなくて、

それを自分たちで編み出した、また笑いに繋げたということに感銘を受けておられるご様子でした。

事実、オール巨人さんはミルクボーイに、彼の中では過去最高評価となる97点をつけています。そして、究極のコメントが

「こんな点数つけさせてくれてありがとう」

「発見した」という事実の価値

オール巨人さんの態度は、私からすれば「発見した」という事実それ自体を評価しているように見えました。

たとえ、既出であっても、それを発見したという事実は発見者それぞれに与えられた素晴らしい価値なのだと。

私の話で恐縮ですが、私の修士研究も、高名な研究者からしたら想像の範囲だったかもしれません。

しかし、私自身は「自分で発見した」という事実が心の支えになっていたりして、発見それ自体が今の自信にも繋がっています。

自己満足と言われれば、それまでですが、何も知らない他人がそれを揶揄する必要はないのかなと思います。

ネットの時代だからこそ

今や、疑問に思ったことはスマホでいつでも調べられる時代になりました。

誰かの発見を2秒で知ることができるのです。

そのような状況のせいか、発見された内容ばかりに気を取られ、
その発見がいかにして実現されたのかという点は評価の対象にはなっていないような気がします。

しかし、発見をするというのは、とてつもなく時間や労力がかかる作業です。
また自分では新発見!と喜んでも、よくよく調べれば、既出の発見だったことなんてもありうるでしょう。

少し話はズレますが、特に子どもさんの発見というものは、大人から見れば、皆が知っている「大したことのない」ことばかりかもしれません。
ネットの時代なら、子どもさん自身がスマホを使うことで、
「自分の新発見は、実は既出の発見だった」と知ってしまうこともあるのかな。

だからこそ、発見の内容だけでなく、それを目の前の人がいかにして発見したのか、またその労力を評価してもいいのかなと、私は思います。

そうでなければ、時代が進み、情報共有が活発になるにつれて、新発見はどんどん絶対数が減っていく。
つまり「発見する」ということに、やる気を見いだせなくなってしまう気がするからです。

2番手でも、3番手でも、何なら100番手でも、きっと「発見」それ自体の価値は等しく素晴らしいものだと、私は信じています。

ーーー

企業や大学の研究では、二番手では評価されないという現実はあります。

他方で、彼らほどガチンコではなく、「好きで学んでいる」「学校で学ぶ」という程度のレベルでは、発見が既出か否かというのは、それほど重要ではないように個人的には感じます。

自分で発見したという感覚は、学びを続ける大きなモチベーションになるように思います。

だからこそ、発見の内容や既出・新発見はともかくとして、発見それ自体を評価してあげたいと私は思います。

自分に甘いですかね??(笑)

というわけで、本日はこれまで!
ご清読ありがとうました!

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