シク教と石鹸と平等と
昔の記憶をたどると「匂いまで鮮明に蘇ってきた」なんて思うことがある。匂いすなわち嗅覚は視覚以上に我々を我々たらしめているのかもしれない。
しかし、そんな匂いについて日本は比較的穏便ないしは控えめであろう。香水も他国ほどど浸透していないし、柔軟剤も海外製品からしたらもはや無香料のようなものだ。
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シク教総本山の黄金寺院に入るには、何人も手足の洗浄が必要らしい。
逆に言えば、手足さえ洗えば異教徒、外国人もみな平等に寺院に進入することができる。そのせいか守衛も異国の観光客の私を手招きし、写真を撮るように促した。
ちなみにこの寺院があるのはインドのアリムトサルという街だ。パキスタンの国境付近の地方都市。インド旅の五日目の私はこの街にたどり着いた。
インドを中心に約3000万人ほどいるとされるシク教徒。インド人といえばターバンのイメージだが、ターバンを巻くのはこのシク教徒の男たちらしい。
ここでは敬虔なシク教徒たちが至る所で祈りを捧げている。そして、どうやらこの広い敷地で黄色人種は私だけらしかった。
彼らはゆっくりと土下座をし、掌を合わせる。その隣で何もわからない私も少し倣って合掌を試みる。隣のターバン紳士がグッドポーズをしてくれたので、たぶんこれで良いのだろう。他人の家に招かれたような気分で緊張していた私であるが、ようやく私もなんとなくありがたい気分になれた。
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ほどなくして、そんな合掌する自身の手から嗅ぎ慣れない匂いがした。先程食べたカレーでもなく、手にかかったチャイでもない、不思議な香料の匂いだ。つまり、先程手洗いで使った石鹸の匂いである。
なぜだろう。私はこのとき自分が異国にいることを強く感じた。
さきほどから眼前にターバンの群衆はもとより、色とりどりの布をまとった女性たちも山程歩いている。にも関わらず、彼らは匂いほどには異国を覚えさせはしなかった。
神様に拝むのは日本人もインド人も同じか。
このカレー、日本でも流行りそうだな。
そんなことを旅が始まってから感じる節が度々ある。見た目や言葉は違っても何だかんだ同じ人間とでも思っていたのだろう。
その点、食文化でも宗教でもないこの石鹸の匂いこそが私とインド人を分かとうとする。そんな認識にふと我に返らざるを得なかったのだ。
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ただどうやら私はこの匂いが嫌いではない。なぜならここにいる皆の手から同じような匂いがしているはずだからだ。
私は異国人でかつ異教徒、なんなら無宗教者に近い存在である。しかし、この匂いを共有している限り、かくなる私でさえもシク教の世界にお邪魔させてもらってもよい。そんな感覚を勝手に覚えた。
つまり、私は完全には分かたれていなかった。
シク教はヒンドゥー教的なカーストを否定し、人間同士の完全なる平等を説くそうだ。実際はその教えを体現するかの如く、この寺院の隣には観光客も利用できる無料食堂があり、毎日10万人前の食事がボランティアらの手によって提供されている。
石鹸の匂いにシク教からの包摂や内包を感じたのは、単なる偶然ではなかったのかもしれない。
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