「点」があるから「線」になる ~コロナ禍で「前と言ってたこと違うじゃねぇか」と怒る人へ~
「点」が作り出す「線」の軌跡を追ってみませんか?
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コロナ禍が続けば続くほど、新型コロナに関する情報発信や意見交流は次第に大きくなっているように感じる。
そうした中、よく目にするのが、有識者や現場の医療従事者等に対する
「前と言ってたこと違うじゃねぇか」
というバッシングである。
たとえば、北大の西浦教授は今やコロナ禍の有識者として新聞やテレビでその名を目にしない日はない。
日夜、新型コロナという得体の知れない敵と戦っている方の一人だ。
そのような人にさえ
「前と言ってたこと違うじゃねぇか。コロコロ意見を変えてんじゃねぇよ」
という批判が集まるを見ていると、とても心が切なくなるのは私だけだろうか。
確かに平時の生活やビジネスにおいて、意見がコロコロ変わるというのは、特に指示を受ける側としては非常に厄介なことである。愚痴も言いたくなる。
なぜなら、それは効率化の足枷となるからだ。
ゴールが見えているのならば、そこへ向かうにあたってのロスタイムはなるべく減らす。
それが効率化の求めるものだ。
しかし、このような愚痴はある程度目に見えるゴールがあるからこそ言えることではないだろうか。
目に見えるからこそ、そこから逆算して、効率化を図ることができる。
他方、今回の新型コロナをみてみると、
確かにコロナ禍を収束させるという漠然とした目標はあれど、実際どのようにすれば新型コロナを抑え込むことができるのかは未だ不透明な部分も多い。
というよりもむしろ、「その不透明さを明らかにする」という実態の掴めないゴールに向かって、有識者、また現場の人々は私たちの代わりに戦ってくれているのではないか。
そうしたとき、
「前と言ってたこと違うじゃねぇか」
という一貫性を根拠とした批判は空虚なものとなる。
なぜなら、意見や発言は事実を知れば知るほど、変化していくものだからである。
先のような批判を繰り返す人は、「点」は「線」から生まれていると勘違いしているのではないか。
だからこそ、一貫性のない意見は「前と言ってたことと違う」ものとして、排除しようとするのではないか。
自分の保有する少ない事実たちに一貫性を持たせるためには、それがあたかも「線」であるように見せなければならない。
まるで、もともとそこに「線」が存在していたかのように。
しかし、「線」は「点」から生まれる。
コロナ禍においては、有識者のみならず、医療従事者をはじめ、新型コロナと最前線で戦う方がSNSやyoutubeでその惨状を伝えてくれている。
彼らの報告というのは、たしかに一部を切り取るという意味では「点」である。
しかし、そのひとつの「点」を報告するために、彼らが数えきれない点を積み重ねていることを忘れてはならない。
つまり、誰よりも数多くの事実を現場で目撃しているのである。
近くでは「点」にしか見えなくても、遠くから見るとそれらは「線」となって浮かび上がってくる。
そうした時、その「線」は直線であるとは限らない。
時には直角に方向転換し、ある時には弧や円を描く曲線であっても何らおかしくないのである。
だからこそ、
「前と言ってたこと違うじゃねぇか」という一貫性を根拠とした批判は空虚で、もはや批判ではなく非難。
すなわちバッシングとさえ思えてくるのだ。
私たちは、有識者や現場の人々の報告をどれだけ真摯に受け止められているだろうか。
今、彼ら・彼女らの貴重な報告を受ける者として必要なのは、
「点」だけを見つめるのではなく、その「点」の集合体である「線」の軌跡を見つめる
心掛けだと私は思う。
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離島にいる私としては、文字通り、浦島太郎状態ではありますが、その状況だからこそ思うことを書きました。
snsで意見を言うことを咎めているわけではありません。
意見を言うにあたり、少し回り道をしてみませんか?ということなのです。
お察しの通り、私は効率化より寄り道が好きです。
直線より、曲線が好きです。
お読みいただきましてありがとうございます。
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