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「8月6日」を象徴化しすぎないために ~ガイドが語る「偶然」の力~

「8月6日にしか原爆と向き合えない」という雰囲気があるように思うのです。

8月6日は今年も過ぎ去った

昨日、今年も8月6日が来た。
ご存知のとおり、8月6日は広島に原子爆弾が投下された日である。

今でこそ香川の離島に移り住んでいるが、ついに2年ほど前までは大学院で、毎日毎日、原爆のこと、広島のこと、観光のことを考える日々を送っていた。

また調査中は、ガイドさんや観光客にインタビューするために、2週間近く毎日平和記念資料館・平和記念公園に通い詰めていた。

今年昨年の生活から比べると、このような経験がまるで嘘のようだ。

嘘のような生活の中では、会社員だった昨年も、離島に移り住んだ今年も、8月6日は私のまわりから何事もなかったように過ぎ去っていったのである。

私の生活と8月6日

今年も、8月6日は職場の話題に上がるわけでもなかったし、ニュースも相変わらずパパラッチじみたものが続いたように思う。
今年に関して言えば、特にコロナ禍のニュースがそれに拍車をかけたのかもしれない。

つまり、8月6日だからといって、原爆の記憶に思いを馳せるというのはなかなかに難しいのだ。

手前味噌だが、2年間、研究対象として広島と向き合った私でさえ、8月6日に向き合うことに大きな困難を感じている。

「ついで」「思い付き」「ふとした拍子」の力

一方で、困難を感じれば感じるほど、広島で出会ったガイドさんの言葉が身に染みる。

「原爆を学ぶために広島に来るなんて構えなくてもいい。お好み焼きが食べたい、宮島に行きたいのついでに来てくれたら。時間が余ったという思い付きでも来館してくれても、ふとした拍子でも、私たちは問題ない」

もちろんしっかりと原爆について知りたい人は、原爆を学ぶために広島を訪れればいい。私もおそらくこの内の一人だ。
人によっては平和記念資料・記念公園の見学に何時間も費やす人もいるかもしれない。

ただ、何時間もかけて「原爆を知りたい」なんて人は、全体で見れば、ごく少数なのだ。

実際、団体旅行で資料館を訪れる場合、そのツアーの大半は60分-90分に設定されているし、そもそも広島旅行だからと資料館を訪れることが義務化されているわけでもない。

だからこそ、ガイドさんが言ったように「思い付き」「ついで」「ふとした拍子」に原爆に向き合うチャンスを得るのが大切なのかもしれない。


この意味では、メディアや国がこぞって8月6日を象徴化する一方で、現場でガイド活動に従事する方々は、冷静に現実を見つめているのだろう。

「8月6日」を象徴化しすぎないために

確かに、8月6日を象徴化することも大切ではある。象徴化されているからこそ、大きなイベントが企画できたりもする。もちろん、メモリアルデーとしての意味もある。

しかし、その象徴化の裏で、どこか「8月6日にしか原爆と向き合えない」雰囲気が広がってはいないだろうか。

これまで述べてきたように、8月6日ですら、原爆に向き合うというのは難しい。
だからこそ、ちょっとした偶然の力に注目するというのは、無責任のようで、実は現実的なことのように思う。

つまり、「思い付き」「ついで」「ふとした拍子」の力を信じるということだ。

大きくなりすぎた問題を身近にとらえるのは難しい。

偶然の力はきっと、その問題をそっと私たちの近くに引き戻してくれるのではないだろか。

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昨今は「旅」に「観光」に出られない日々が続いていますね、、、

私もそうですが、もどかしさを感じている人も多いのではないでしょうか?

旅や観光の偶然に着目するという論点は、研究を離れた今でも、ときどき私の頭の中を駆け巡ります

今回は広島の原爆からその一端をご紹介しましたが、今後も少しずつnoteにてお伝えできればと思っています。

というわけで、本日はこれにて!
お読みいただきましてありがとうございました!

たまには、私の研究談義にも付き合っていただけると嬉しいです。

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