見出し画像

青春って確かにダラダラだよね。

君はロックを聴きますか?

青春を形容する時に

「ダラダラと流れる青春の音」
あいみょん『君はロックを聴かない』

青春はきっと多くの人間にとってキラキラしたものだ。
恋だろうが、スポーツだろうが、青春を点として思い起こすとそれはキラキラとした記憶として頭の中に浮かび上がってくる。
あんなに頑張った、あんなに悔しかったと言いながら。

無論青春が暗黒時代だったという人もいるだろうが、暗黒という表現自体が、青春がキラキラの対義語であることも確かだろう。

義務化されたキラキラ

しかし、キラキラとした青春の点と点を結んだ線を見つめてみると、そこにはなんてことのない日常があることに気づく。
友人とただ午後を漫然と過ごしたり、分かりもしないのに難しい本を眺めてみたり。この時間をキラキラではなく、ダラダラと呼ばずなんと形容できようか。

青春を懐古する歌や詩、はたまたドラマや映画は少なくない。その中で、青春を惰性や浪費として描く作品はどれほどあるのだろう。

つまり、青春とは青春を経験した者にとっても、また経験できなかったものにとっても、常にキラキラしておかなければならないのである。

ダラダラと流れる音

さて、ダラダラと音が流れるとはいかなる状況なのだろうか。

スポーツであれば、歓声であったり、時には怒号もあった。音楽にもまた、誰か息遣いや何かが擦れる音があったりする。
人間関係であれば、胸の高鳴りや汗がすーっと背中を落ちていく様を思い起こせたりもする。
その1つ1つは乱反射する光のように瞬時に頭の中によみがえる。

しかし、漫然と過ごした午後や、虚勢を張った読書を振り返っても、私の頭で音は鳴り始めない。本当にこの時、ダラダラとでも音は鳴っていたのだろうかとさえ思えてくる。

音はどこからやって来る?

「あと少し僕に近づいてほしくて」
「恋人のように寄り添ってほしくて」
「少しでも僕に近づいてほしくて」

『君はロックを聴かない』の中では「ロックを聴かない君」に対する主人公の思いが、曲の終わりに向けて少しずつ変化していく。

どうだろう?あまりにも相手任せすぎやしないか?

しかし、この相手任せな姿勢こそが、ダラダラを表していると私は思う。
つまり、キラキラとした音が流れる時には一人称の自分が何を感じたかを思い起こすのに対して、ダラダラと音が流れるには第二者や第三者の存在が必要なのではないかということである。

そのため、恋心を伝えられない主人公のダラダラとした青春は、君という存在があって初めて音となる。

私が思い出したダラダラには登場人物はいなかった。だからこそ、頭の中を誰かの音が流れるなんてことはなくて当然なのである。

他方で、きっと無我夢中になるがあまり、他人の音が流れていても、それに気が付かないということもあるだろう。
ただ、このような過ちはキラキラ輝く青春時代の若気の至りとしてそっと心の中にしまっておきたいものでもある。

ーーー

君はロックを聴かないが曲中では「ロックなんか聴かない」に変化するのをどう捉えればいいものやら。

CMでも流れていたりもしたので、何を今更とお思いの方もいるかもしれませんが、、、せっかくの機会ですので聴いてみてくださいね。

ロックなんか聴かなくても。

というわけで、本日はこれにて。
ご清読ありがとうございました。

★「旅×農×本」な民宿やってます↓




この記事が参加している募集

いただいたサポート分、宿のお客様に缶コーヒーおごります!