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なにを書くかではなく、なんか書く。

「悩んで文章書ける奴はほとんどいない。逆に悩んで書ける奴を天才って呼ぶわけで」

書き続けるコツ

かれこれ一年以上、記事を日々書き続けてきたが、書き続けるコツを尋ねられることがたまにある。

これまでは気合だとか、何かしらの理由だとか、色々とそのコツの根源を探したものだが、イマイチ自分自身ピンときていなかった。

「なんか書かな」

さて、先月は自分の中で久しぶりに「時間がない」と思えるくらいにバタバタしていた。そんな中で記事を書いていたのたが、そのときいつもこう思っていた。

「なんか書かな」

何を書こうみたいな高邁な次元ではない。無論読んでもらって何かを知ってほしいという本来の目的を失い、書くこと自体が目的化してしまっていたはたしかだ。

ただ、これが休まず書き続けるモチベーションであったことも事実である。

凡人は悩む前に

きっとこのような行動を今でも続けているのは、学部時代の師、大学院時代の師の両方が文章を書くコツとして、

「とりあえず手を動かす、書く。」

という教えを授けてくれたからなのかもしれない。大学院時代の師は、

「悩んで文章書ける奴はほとんどいない。逆に悩んで書ける奴を天才って呼ぶわけで。凡人はとにかくなんか書く。すると、何か見えてくるから」

と言っていた。私はそのとき、悩んで文章を書こうとしていたので、とても恥ずかしい気分になったことを今でも覚えている。またそのとき同時に、

「悩むなんて、あとからでもできるから。とりあえず目に見えるたちにするの。悩みながら書くよりも、書いたものを悩みながら書き直す方がよっぽど建設的よ」

という学部時代の師のアドバイスを思い返してもいた。

下書きをひたすら更新する

おかげさまで彼らの教えのおかげか私はいま大量の書きかけの下書きをストックし、書けそうなものから手を付けている。

確かに書きかけの記事が増えるのは不安もあるが、私は大学院時代に書き溜めた下書きが論文の中でパズルのように連関し、文章として"はまって"いく瞬間を味わった。また今になっても案外下書きAと下書きBの組み合わせで、新たな記事Cが生まれることも少なくない。

そのため、文章を書き続けるコツの一つには、

とにかく何でもいいから下書きをためる

があるのではないか。たしかに一つの作品とはならないかもしれないが、書くという力や習慣は日々養われているはずである。

少なくとも天才ではない私は、これからも師の教えを全うし、「なんか書く」ことに努めようと思っている。

ーーー

私からすれば、大学にいる先生は超絶賢い天才みたいな人たちばかりでしたが、案外みな自分のことを冷ややかに見てらっしゃって。

というわけで本日はこれにて。
ご清読ありがとうございました。

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