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バナナ専用ケースのおかげで多様性と普遍性の違いが見えてきた

今、多様性が大きく叫ばれるのは、きっと普遍性に対する違和感が広がっているからなのだろう。

バナナ専用ケースに思う

私はついに見つけてしまったかもしれない。ユニバーサルデザインとやらを。

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どうやらこのケースには、ほとんどのバナナを収納できるらしい。

昔、社会の教科書に車いすスロープがユニバーサルデザインの模範例として載っていたが、何が何だかよくわからなかった。そもそもユニバ-サルという言葉の意味合いすら理解できてなかった。しかしこのケースをみれば、私はユニバーサルを理解できる。

多様性と普遍性の混同

昨今、多様性の大切さが叫ばれて久しいが、私はこのバナナ専用ケースをみて、もしかしたら自分が多様性(diversity)と普遍性(universality)を混同してしまっているかもしれないと思った。

いかなるバナナでも収納可能ということは、それはもはや国民として認められることと同義である。私を例にとると、私が男だろうが女だろうが、異性愛者だろうが同性愛者だろうが日本人の親から生まれたという事実さえあれば、基本的に日本国民であると認めれられる(例外はもちろんあるが)。
バナナケースもそうだ。多少曲がり過ぎていようが、緑が残っていようが、ケースにさえ入れば、それは有無を言わさずバナナなのだ。

そのため、普遍性がある(universality)とは誰もがフィットする大きな器が存在するということなのである。事実、universalityと近い言葉にuniverse「宇宙」がある。すなわち宇宙という大きい器の中は小惑星も彗星も恒星も何かもが受け入れられ、それぞれが宇宙にフィットしているのである。

多様性を認めるとは

ただ与えられた器にフィットしない場面が誰しもに起こりうる。加えて、器それ自体に疑問を覚えたりもする。なぜなら、器には国民という大きな器から、性別の器、年齢の器など様々なサイズが存在しているからだ。

そのため、多様性を認めるというのは、自分や他人が自身にフィットする器を探すことを認めるということなのではないか。だからこそ、別にバナナを運ぶという目的を達成するのであれば、普遍的なバナナ専用ケースでなくても、バナナより少し大きめの長方形の箱でも問題ないのである。なんなら特注バナナケースを発注する人が存在してもいい。

誰かが用意した器から脱して、自分で器を探すことで多様性が広がる。だとすれば、多様性に対して普遍性を前提とした器を持ち出して議論することはお門違いになりかねない。

普遍性のひずみ

そしてまた普遍性には決定的な欠点がある。普遍的な器の中には、ときに不均衡が生じるのだ。ドンピシャサイズのバナナならケースの中でガタガタ揺れずに運んでもらえるが、ぎりぎりフィットのバナナの場合は箱にボディをぶつけてに痣ができてしまうかもしれない。

バナナ専用ケースのようにいかなる個人を受け入れことが普遍的であるのなら、普遍性は最適解ではなく最善解を追い求める。だからこそ、時に居心地の悪さを感じる人が出てくるのだ。

みんな違ってみんないいどころか

今、多様性が大きく叫ばれるのは、きっと普遍性に対する違和感が広がっているからなのだろう。普遍性が用意する最善解は個人個人を満足させる最適解になることはない。

だからこそ、みんな違ってみんないい。
もはやみんなどころか、一人一人違ってそれでいいのである。

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ご清読ありがとうございました。
よくよく考えたら、もう半年以上バナナを食べてないかも。島生活で買い出しはいつもまとめ買いなのでバナナって潰れやすいから買わないんですよね、、、

あれ、バナナ専用ケースいるかも、、、無性にバナナが食べたい、、、


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