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「限りなく自己満足に近く、そして何かを教えようとしない」記事を目指して

ただ思ったことを書くのは案外難しい

どんな記事を書きたいのだろう

ぼんやりと投稿を続けていると気が付くと投稿することが目的となってしまう。改めて思う。私はそもそもどんな記事を書きたいのだろう。色々あるとはいえ、一番の願いは、

「限りなく自己満足に近く、そして何かを教えようとしない」記事である。

書きやすい社会派コラム

私が投稿するテーマの中で最も書きやすいのが、何かを評論したようないわゆる「社会派コラム」だ。例えば以下のように。

トピックとしては地方移住や地域おこしに関する話題や働き方、また多様性に対する議論などが多い。これらが書きやすいのは、論理的に思考すれば何かしら解を導けるからである。感情や迷いを排し、何らかの条件に基づいて事実を見つめれば、解はある程度と見えてくる(前提としてその議論の是非を問わなければであるが)。

また事実や条件に忠実であればあるほど、論理展開の構造的ミスにもにも気づきやすい。内容や文体こそ物々しいかもしれないが、書き手としては「一定のリズムやフォームで振ればボールに当たる野球ゲム」のような感もある。

友人からのコメント

先日記事を読んだという友人からコメントが届いた。

「社会派の記事も好きだけど、こういう個人的な内省の記事も好き。続けるの大変だろうけど、頑張ってね。自分に内省する余裕もない時、ふと読むと、どんな内容でも元気もらえる」

ただ思ったことを書き、あわよくば誰か共感してくれないかなという気持ちだけで書いてくれないかなといったところであった。そのため、友人に元気を与えるつもりも私としては一ミリもなかったのである。

もはやほとんどが自己満足で、何かを教えるつもりはなかった。

エッセイの難しさ

実はというと、この記事は書き終わるのにとても時間がかかった。なぜなら何かに基づいて議論したわけでも、心の底からあふれ出るような主張もなかったからであるだ。つまり「オチ」が見つけにくいのだ。

エッセイは感情や主観という極めて個人的なもので構成される。そのため、思考の条件さえもが曖昧で、根拠なき思考が生まれたりもする。

それを自身で噛み締め、ときに正当化する。結果的には自分の中だけでとどめておればいいものを、ときにそれを誰かに見せつけるのだ。

確かに、それが味のあるいい記事になったりもする。ただ、単なるマスタベーションで終わることも少なくない。

誰かに思考してもらう

友人の言葉を見る限り、他人の言葉というものには誰かを思考させる作用があるのかもしれない。疲れて何も考えていられないとき、ふと誰かの言葉を自分の中に取り込むことで、自然と思考を巡らせることができるのだろう。

そんなときお堅い社会派コラムは自然と自分の中に染み込んではこない。咀嚼して、嚥下してようやく自分の物になるのだ。

「限りなく自己満足に近く、そして誰かに何かを教えようとしない」エッセイはその本分から、すっと自然に誰かの物になる。

私自身もそんな誰かのエッセイに心を奪われてきた人間である。人の心はきっと動かそうと思って動くものではないのだ。

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なんだかんだそこそこ堅めな投稿になりました。徒然なるままにとはいかず、、、
主観で物事を考え続けるのは案外難しいものです。

というわけで、本日はこれにて。
ご清読ありがとうございました。

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島で見られる瀬戸内海の多島景観(さぬき広島・青木地区より)

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