やりたくないことをやらないを目指して
やりたいことを無理に探すよりも、やりたくないことをやらない方が私にとっては気楽なのだ。
やりたいことをやるとは言うけれど
「やりたいことをやってるだけ」
雑誌やメディアに出る起業家たちは口をそろえてこう言う。また流行り言葉の「意識の高い」の努力家たちも同じようなことを口にする。
私は昔からこのような表現が得意ではない。なぜなら、やりたいことを探すのがとても苦手だからだ。
人生は足し算?
やりたいことをやる人たちの人生はきっと足し算なのだと思う。
あれができた!これができた!そんな自分が好きなのだと思う。だからこそ、彼らは私よりも視野が広く、多趣味だ。きっと「できた!」という経験が私よりも多いのだろう。だからこそ、次から次へと主体的にやりたいことが浮かんでくるのではないか。
そんな姿はとても清々しいし、見ていてとても力をもらえたりもする。他方で、私のような卑屈な人間は「そんなにポジティブなれれば俺も幸せだろう」なんて妬み・嫉み・僻みのフルコンボで彼らから目をそらしてしまう。
引き算な生き方
私自身の場合、やりたいことはパッとは思いつかないが、やりたくないことは山のようにある。
コンビニの弁当で毎日の食事を終わらせたくないし、気の合わない人と毎日顔を合わせたくないし、辛いことは嫌いだし。また友人や家族・親戚といつの間にか疎遠になるのも嫌だなと思う。旅行に行けないなんて、もっと嫌だ。
また単純に、そもそも面倒くさがりである。
ただ残念ながら働かないと生きていけないとか何もしなければ暇で暇で仕方ないという事実があるせいで、「結果的に何かしなければならないのなら、なるべくやりたくないことから距離を置こう」と思い始めている。つまり、私の考え方は引き算なのだ。
毎日のメシを美味しく食べるために
「やりたくないはやりたいの裏返し」なんて言う人もいるが、私の面倒くさがりはそんなヤワではない。苦しい・辛いはできるだけ避けたい。それが脳を支配しているのだ。
私からすれば、この世は不必要なまでにポジティブ教が蔓延し始めていると思っている。
ポジティブを遂行できる人はそれで構わない。もはやそれが良い。
ただ、私のようにネガティブな面倒くさがりも相当数いるのではなかろうか。
やりたいことを無理に探すよりも、やりたくないことをやらない方が私にとっては気楽である。そして何より毎日のメシが美味く感じる気がするのだ。
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というわけで、やる気の漲らない投稿でございました。
辛いことも経験しろ!なんて怒られそうですが、辛いって人によってその内容が異なるので、私はあまりこのような指導を好ましいとは考えません。私の辛いは誰かのスキだったりするし、逆も然りで。
というわけで本日はこれにて!
ご清読ありがとうございました!
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