個性を「個性的」で均質化しないで
個性的という言葉は、あくまで個性「的」でしかないのだ。
「君は個性的だね」
私は今の島生活をするようになる前からも、
「君は個性的だね」
と言われることが多くあった。もちろん「個性的」という言葉は誉め言葉なのかなとも思っているが、どこかで
仲間外れ
にされていく感覚もある。
今となっては一匹狼な私を応援してくれる人もいるおかげで、この感覚にはもう諦めや踏ん切りがついている。
とはいえ、昔は「個性的」と呼ばれることで仲間はずれにされていく恐怖を覚えていたのも事実である。
「個性的」と「普通」
仲間外れという感覚は、
「あなたは、我々普通の人とは違いますよ」
と言われているような気がしていたということだ。
普通という言葉をここでは「個性的とは呼ばれないこと、またグループの調和を保てること」であると定義したい。
私からすれば、私が個性的であろうとなかろうと、仲良くしたいと思っているのに、「個性的」という言葉で線引きがなされるのだ。
そして、私のような「個性的」な人は「個性的」グループとして、ひとまとめにされるのである。
言うなれば、仲間はずれの集合体とでも言えようか。
「個性的」ってつまり何?
ただ「個性的」と一口にいっても、絵が上手な人もいるし、黙々と何かを続けられる人、とってもおしゃべりな人と十人十色である。
おそらく、私は他己評を踏まえると、ずっと何かを考えている人になると思う。
このような個性的な人たちは、場合によっては、浮いている人ともいえるかもしれない。
ただ、その「浮き方」は人によって様々である。
だからこそ、「個性的」という言葉でその一人一人が均質化されることに私は昔から多大なる違和感を覚えていた。
「ずっと絵を描いている子と僕って、個性的と言えば個性的やけど、中身は全然違うやん」
言葉でくくらずに
今回、わざわざ「普通」という言葉を定義したのは、私自身が「普通」という言葉が大嫌いだからである。
なぜなら、「普通」は人によって認識が分かれるものだからだ。
大学院時代の指導教員の表現を借りれば、普通は「意味のあるようで意味のない言葉」である。
私からすれば、「個性的」という言葉も、この「意味のあるようで意味のない言葉」である。
個性的という言葉は、あくまで個性「的」でしかないのだ。
すなわち、「的」という表現がなされている時点で、何かをひとまとめにしようとしているのである。
個性の重要性が叫ばれる時代だからこそ、「個性的」という言葉には警鐘を鳴らしたい。
せっかくの個性が「個性的」という言葉で均質化されてしまう。
個性を本当に尊重するのなら、その内実を一つ一つ見つめていくことが必要なのではないだろうか。
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本音を言えば、個性的という言葉も、個性という言葉も、その両方が
「意味のあるようで意味のない言葉」
なのではないかと思っています。
だって、結局、「あなたの・私の個性って何?」って思ってしまうので。
というわけで、本日はこれにて!
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