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幸せは暴力的

無条件に「おめでとう」と言われたいのである。たとえ、その範疇にない人が居たとしたしても。

ありきたりな幸せ

男女の結婚、出産、誕生日。世の中には無条件に祝福される事象がある。
だからこそ、幸せは案外ありきたりだったりもする。

だって、結婚すれば、子を授かれば、誕生日を迎えれば多くの人か無条件に「おめでとう」と思ってもらえるからだ。なんなら赤の他人さえもが祝福してくれることさえある。

外国人の私へのカミングアウト

「このことは外国人の友達にしか言っていないんだ」

トルコでのルームメイトはゲイだった。トルコ人の彼曰く、トルコも含めイスラム教社会では、同性愛に対する寛容はほぼ皆無と言っていいらしい。そのため、もし彼が彼の家族にその事実をカミングアウトしたならば、勘当されてしまうだろうと。

トルコにおける「ありきたり」の結婚は男女間の話である。

だからこそ留学生として暮らす私、つまり外国人の私は、彼にとって「ありきたり」の外側にいる人間だった。

ありきたりと区別

「結婚している人は幸せ」「子を持つ人は幸せ」とつい考えてしまう。
なぜなら、それは多くの人間にとって「ありきたり」の認識だからだ。私もその一人である。

しかし、日常的に「ありきたり」の外側にいる人もいる。偶然好きになったパートナーが同性だったり、偶然子を授かれない体質で生まれてきたり。そんなとき、「ありきたり」は人間をその内側と外側で区別するのだ。すなわち、外側の住民たちにとって「ありきたり」な幸せは暴力的でもある。

トルコで「ありきたり」の外側にいた私ではあるが、今は日本でその内側に存在し、幸せを無条件に享受している。

無条件に祝われたい

だからといって、私には分断を乗り越えよう!と心の底から叫ぶ自信はない。なぜなら、そんな「ありきたり」な幸せをどこかで望んでいる気がするからだ。

つまり、何人にも誕生日が365日に一度巡ってくるように、無条件に「おめでとう」と言われたいのである。たとえ、その範疇にない人が居たとしたしても。

結論は出ない。どうしていいかは分からない。しかし、この分断の存在を伝えずにはいられないのだ。

ーーー

私は常々「普通」という言葉が嫌いだと主張してきました。おそらくこの理由はその言葉が区別を生み出すからです。言い換えれば、とある誰かが口にする「普通」なるものに含まれれる人と、そうでない人に分断が生まれるからです。

どこか今日の社会やら世界と呼ばれるものを見渡すと、その分断が日に日に大きくなっているように感じます。そんな毎日の中で、私が今できることは、その分断を境界として2分法でとらえるのではなく、その分断のほころびやにじみ、すなわち「ほとり」を見つめることのように思うのです。

取り留めもありませんが、これにて。
ご清読ありがとうございました。

なおこの記事は

の続きです。

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