見出し画像

郷愁の味

 先日、ある定食屋に立ち寄った。
 そこは、「おふくろの味」を謳い文句にする店で、旬の食材を使ったお惣菜に定評があるようだ。
 私もお惣菜の味が気になり、定食を注文する。口にすると、食材そのものの風味を生かしつつ、ごはんにとても合う味付けで、自炊では作れそうにないクオリティーが舌に広がった。

 味には満足しつつ、一つ気になったのが、「おふくろの味」という謳い文句である。仮に「おふくろの味」が「母親の手料理の味」を指しているのであれば、「私はこんな味の料理を、母親に作ってもらったことはない」というのが正直な感想である。「懐かしい味」とも感じなかった。強いて近い感覚を搾り出すなら、「落ち着く味」ではあったと言えるかもしれない。

 「みんなこの店で、"おふくろの味"を堪能してるのかな……」と気にしながら、私は定食屋をあとにした。

 家族像や食生活が変貌する現代社会においても、しばしば目にする「おふくろの味」とは、そもそも何を指しているのか。
 この一点に注目し、その正体に迫った本がある。湯澤規子の『「おふくろの味」幻想』(光文社新書)だ。

 本書ではまず、「おふくろ」という言葉の誕生と使用者層に光をあてる。「おふくろ」はもともと、漢字で「御袋」と表記され、「高貴な人の母親」という意味で使われていた。それが次第に「おふくろ」とひらがな表記に変わっていき、男性が自分の母親に対して使う呼称として定着していく。

「なぜ、男性は「ママ」と呼ばないほうがよいのか。また、なぜ男性は一人前の大人と思われたい時に「おふくろ」という呼び名を使うのか。それは、多分にジェンダーにもとづいた本人による使い分けがなされ、かつ周囲にもそれが求められているからと、説明することができる」
湯澤規子『「おふくろの味」幻想』光文社新書、P34)

 男性が一人前の大人と思われたいときに「おふくろ」という呼び名を使う、という指摘には、思わず笑ってしまう。私自身は、これまでに一度も母親を「おふくろ」と呼んだことがないため、まだ一人前の大人だという自覚を持てていないようだ。(今後も持たないかもしれない。)

 「おふくろ」=「自分の母親」であれば、「おふくろの味」=「母親の味」ということになりそうだが、事態はそれほど単純ではない。どの時代においても、母親が料理をしていたとは限らず、女中が担い手である家庭もあった。「おふくろの味」として懐かしんでいる味が、母親とは無関係な場合があるのである。

 著者は、「おふくろの味」をテーマにした書籍を年代ごとに整理している。1970年代から出版点数の増加が見られるが、その背景には日本の食文化の急激な変化があった。

「故郷に暮らす人びと自身から発信される「おふくろの味を伝えよう」という意思を含んだ記録が一つの社会運動のように展開し、これは一九九〇年代まで持続する。その背景には社会や食の大変化があったことが想定される。
 一九七〇年は、冷凍食品や欧米料理普及のためのパイロットレストランが披露された大阪万博開催の年であり、農業分野ではコメ余りによる「減反政策」が始まった年でもある。高度経済成長真っただ中のこの時期には、各地で工業化が進み、地域固有の暮らしが次々と失われ、忘れ去られようとしていた。こうした状況が各種団体による料理本出版に反映されている。」
湯澤規子『「おふくろの味」幻想』光文社新書、P45〜46)

 地域固有の食文化を守る重要性を、読者に訴えかける上で、「おふくろの味」という言葉の訴求力が期待されていることが分かる。ここでの「おふくろの味」は、「ふるさと」や「故郷」など、場所性・郷土性を強く帯びた言葉であった。

 一方、21世紀における「おふくろの味」はどうか。家族が一つのテーブルで、同じ献立を食べることが少なくなるなど、食卓の風景が変貌する中で、家庭の味が「おふくろの味」として定着する機会も少なくなった。そうなれば、「おふくろの味」は「家族」や「地域」と結びついたものではなくなり、もっぱらメディアが創り出す概念となった。

 「おふくろの味」は、「食」がただお腹を満たすための個人的なものではなく、各々の時代状況が反映される、きわめて社会的なものであることを、私たちに気づかせてくれる。



※※サポートのお願い※※
 noteでは「クリエイターサポート機能」といって、100円・500円・自由金額の中から一つを選択して、投稿者を支援できるサービスがあります。「本ノ猪」をもし応援してくださる方がいれば、100円からでもご支援頂けると大変ありがたいです。
 ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?