郷愁の味
先日、ある定食屋に立ち寄った。
そこは、「おふくろの味」を謳い文句にする店で、旬の食材を使ったお惣菜に定評があるようだ。
私もお惣菜の味が気になり、定食を注文する。口にすると、食材そのものの風味を生かしつつ、ごはんにとても合う味付けで、自炊では作れそうにないクオリティーが舌に広がった。
味には満足しつつ、一つ気になったのが、「おふくろの味」という謳い文句である。仮に「おふくろの味」が「母親の手料理の味」を指しているのであれば、「私はこんな味の料理を、母親に作ってもらったことはない」というのが正直な感想である。「懐かしい味」とも感じなかった。強いて近い感覚を搾り出すなら、「落ち着く味」ではあったと言えるかもしれない。
「みんなこの店で、"おふくろの味"を堪能してるのかな……」と気にしながら、私は定食屋をあとにした。
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家族像や食生活が変貌する現代社会においても、しばしば目にする「おふくろの味」とは、そもそも何を指しているのか。
この一点に注目し、その正体に迫った本がある。湯澤規子の『「おふくろの味」幻想』(光文社新書)だ。
本書ではまず、「おふくろ」という言葉の誕生と使用者層に光をあてる。「おふくろ」はもともと、漢字で「御袋」と表記され、「高貴な人の母親」という意味で使われていた。それが次第に「おふくろ」とひらがな表記に変わっていき、男性が自分の母親に対して使う呼称として定着していく。
男性が一人前の大人と思われたいときに「おふくろ」という呼び名を使う、という指摘には、思わず笑ってしまう。私自身は、これまでに一度も母親を「おふくろ」と呼んだことがないため、まだ一人前の大人だという自覚を持てていないようだ。(今後も持たないかもしれない。)
「おふくろ」=「自分の母親」であれば、「おふくろの味」=「母親の味」ということになりそうだが、事態はそれほど単純ではない。どの時代においても、母親が料理をしていたとは限らず、女中が担い手である家庭もあった。「おふくろの味」として懐かしんでいる味が、母親とは無関係な場合があるのである。
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著者は、「おふくろの味」をテーマにした書籍を年代ごとに整理している。1970年代から出版点数の増加が見られるが、その背景には日本の食文化の急激な変化があった。
地域固有の食文化を守る重要性を、読者に訴えかける上で、「おふくろの味」という言葉の訴求力が期待されていることが分かる。ここでの「おふくろの味」は、「ふるさと」や「故郷」など、場所性・郷土性を強く帯びた言葉であった。
一方、21世紀における「おふくろの味」はどうか。家族が一つのテーブルで、同じ献立を食べることが少なくなるなど、食卓の風景が変貌する中で、家庭の味が「おふくろの味」として定着する機会も少なくなった。そうなれば、「おふくろの味」は「家族」や「地域」と結びついたものではなくなり、もっぱらメディアが創り出す概念となった。
「おふくろの味」は、「食」がただお腹を満たすための個人的なものではなく、各々の時代状況が反映される、きわめて社会的なものであることを、私たちに気づかせてくれる。
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