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在野研究一歩前(40)「読書論の系譜(第二十二回):内村鑑三編『偉人と讀書 讀書に關する古今偉人の格言』(山縣圖書舘、1900)③」

 本稿では、前回同様、内村鑑三編『偉人と讀書 讀書に關する古今偉人の格言』内で紹介されている、「偉人」の「読書」論を取りあげて、簡単な説明や感想を述べたいと思う。

クインテリアン(クインティリアヌス)
「凡ての善き著書は勉勵以て讀まるべきものなり、而して一回終まで讀み畢らは更に始より繰返すべきものなり」(P5)

マルクス・ファビウス・クインティリアヌスは、ヒスパニア出身のローマ帝国の修辞学者で、弁論術の教師としても活躍した人物である。主著は『弁論家の教育』。
 クインティリアヌスは言う。
 すべての優れた書籍は、真剣に読まなければならないものである。一回読み終れば、また始めから再読すべきである。

使徒ポーロ(パウロ)
「そは従前より錄されたる所は皆な我儕を訓へん爲めに錄されたる也」(P7)

パウロは、1世紀のキリスト教の使徒。はじめはユダヤ教徒としてキリスト教を迫害したが、のちイエスの声に導かれて回心し、キリスト教伝道に人生を捧げた。新約聖書には13通(真作と思われるものは7通)の書簡収められており、イエスの贖罪の死と復活を中心とした神学が示されている。
 パウロは語る。
 以前から世に存在する記録は、すべて人びとの学びのために残されたものである。

リッチャード・ド・ベリー
「書中に於て吾人は死者の生者と異らざるを見る;書中に於て吾人は將に來らんとする事を領知す、書籍は教鞭笞杖を用ひず、又叱責憤怒することなくして吾人に敎ふる良教師なり、汝若し彼等に近けば彼等は曾て眠れることなし:汝若し研究上彼等に糺すことあらば彼等何事も匿すことなし;汝若し彼等を誤解することあるも彼等敢て不平を云はず;汝無智なるも彼等決して汝を嘲ることなし」(P7~9)

リッチャード・ド・ベリー『フィロビブロン』という読書論の著作で知られるイギリス出身の読書家である(日本では、古田暁の翻訳で『フィロビブロン―書物への愛』(講談社学術文庫、1989)として出版されている)。
 リッチャード・ド・ベリーは語る。
 本の中において私たちは、死者と生者が異なるものではないことを知る。
 本の中において私たちは、これから遭遇する者のことを知っている。書籍は鞭を用いることなく、また叱りつけてくることもないまま、物事を教えてくれる良教師である。
 あなたがもしこの良教師(書籍)から学ぼうと近付くと、良教師(書籍)はいつでも眠らずに物事を教えてくれる。
 あなたがもし研究上において、良教師(書籍)に疑問を投げかけることがあれば、良教師(書籍)はなんら隠すことをしない。
 あなたがもし良教師(書籍)の内実を誤解していたとしても、良教師(書籍)から不平を口にしてくることはない。
 あなたがもし無智であったとしても、良教師(書籍)がそれに対して嘲りの態度を示すことはない。
 ―「書籍」のことを「良教師」と表現する、リッチャード・ド・ベリーの「読書」論は興味深い。

 以上で、「在野研究一歩前(40)「読書論の系譜(第二十二回):内村鑑三編『偉人と讀書 讀書に關する古今偉人の格言』(山縣圖書舘、1900)③」」を終ります。
 次回も引き続き「偉人」の「読書」論を見ていく予定です。
 お読み頂きありがとうございました。
 

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