幽霊
もし人の一生が、一回きりのぶっつけ本番であるとすると、ほとんど人間は後悔と反省の多い人生を送ることになる。いや、まだ後悔と反省ができるならいい方で、日々生きていくこともままならず、死を余儀なくされる場合もある。
そのことを考えるとき、頭に浮かんでくるのは「幽霊」。「化けてでるぐらいできなきゃ、やってらんないよな……」という思いから、「幽霊」の存在を肯定するにいたる。
とはいえ、「そうなんだね」と言って、いきなり背後から両肩を摑まれたりするのは、いただけない。「幽霊」とも、きちんと対座して、お茶でも呑みながら歓談できるとありがたい。
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引用したのは、著者がことあるごとに「私は幽霊を見ない」と口にしながら、「幽霊」にまつわるエピソードを綴っていく、珍しいエッセイ集からの一節。
菊池寛の心霊体験を、本人ではなく小林秀雄が語っていること。また、このエピソードに感化されて、著者自身も「君は、何時から出てるんだ?」と幽霊に尋ねてみたい、と述べているのが面白い。共感も多分にできたので、今回紹介してみた。
私一人しかいないはずの旅館の一室に、口から血を流す男が現れれば、その存在を「幽霊」だとみなすのは容易である。
だがもし、その幽霊が口から血を流しておらず、幽霊らしい(?)特徴を有していない外見で、早朝の満員電車の中にいたとしたら、どうだろう。私の四方を囲む人間が、生きた人間かそれとも幽霊か、判断するのは難しい。
もし疑いを晴らしたいと思い、乗客の一人に「あなたは幽霊ですか?」と質問したとすれば、それこそ私自身が、一つの怪談として語られる存在になってしまう。
上記の思考実験を、友人数人に話してみたところ、「最近、ちゃんと眠れてる?」と体調を心配された。そりゃそうだ。
ただ私にとっては、平日早朝の決まった時間に、毎回鮨詰め状態の電車に揺られながら、仕事場に向かっていく勤労者の姿の方が、よほど「幽霊」より奇怪にうつる。
「見慣れる」というのは、恐ろしいことだ。どれだけ奇怪な光景からも、その異様さを感じとれなくなる。「幽霊」の場合、「見慣れる」という事態が起きえないから、いつまでも異様さを失うことがないのだろう。
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