見出し画像

【連載小説】湖面にたゆたう(島田荘司「丘の上」の続編)⑨

<< 湖面にたゆたう⑧
                      湖面にたゆたう⑩ >>

「腹減ったあ」
 ただいま、と言い終わらぬうちに、こう続ける。洗面所で手を洗う勢いのいい水音が止むと、明るい音がしてダイニングキッチンのドアが開く。
帰宅したかと思えば光一は、大盛りによそったご飯をはふはふ言いながらかき込んでいる。生まれつきの癖でゆるいパーマのかかったような長めの前髪から、丸い目が覗く。少しだけ大きくて丸い鼻も、同じ年頃の少年に比べると小柄な体形も、どこか子犬を思わせる。

「うめえ」
「なんですか、またそんな乱暴な言葉を使って」
 叱りながらも友子の心は和む。
「さっきね」
茶碗から顔を上げた光一と、友子の声が重なる。友子が首を軽く振ると、光一は言った。
「電車の中からLINEしたんだよ」
「あら、ごめんなさい。気づかなかったわ」
「いいんだよ。別に大したことじゃないから。何か要るかなって思っただけ」
 光一はバイト帰りによく、駅前のスーパーに用事があるかと連絡をくれる。反抗期もないではなかったが、子どもの頃と変わらず優しくて明るい子だ。
「ありがとう」
「今、お母さんも何か言いかけなかった?」
「ううん。何でもないのよ。ほら光一、食事中に携帯を見るのは止めてって、いつもお母さん言っているでしょう」
「へいへい」

 里美少年をテレビで見たと、友子からは言い出さなかった。十年前の秋、急に引っ越す時に光一は、里美少年にお別れを言いたいと、しきりにせがんだ。確か「お母さんから伝えておいたから」だとか、「里美くんは風邪で寝ているから会えないのよ」だとか、光一を宥めすかしてうやむやにしたのだ。よく三人で遊んだという、笠井老人に対しても同じだった。
 
「里美少年を覚えているかい? ほら、成城に住んでいた頃に光一と仲が良かった。確かウチにも一度遊びに来たことがあったろう?」
 そう言い出したのは文明だった。久しぶりに早く帰宅したので、家族揃って夕食をとっていたときだ。
「もちろん覚えてるよ」
光一が即答する。文明はある男性歌手グループの名前を挙げると、こう言った。
「メンバーの淳さんって、あの里美淳くんだったんだよ」
「え、そうなの?」
 驚いた光一は、普段なら食べ終えるまで決して手離さない茶碗と箸を、思わずテーブルに落としかける。

ここから先は

3,861字

スタンダードプラン

¥700 / 月
このメンバーシップの詳細

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?