1995/1/17によせて、地震の時の咄嗟の行動について 〜 「満月の夕」 ソウルフラワーユニオン
1993年夏、北海道南西沖地震
最近、火山の噴火が世界各地で起きていて、なんとなく気になる。
と思うので、今日の日に、あの日のことをちょっと書いておこうとかと。
↑の記事でも書いていますけれど、
あの日は、とても蒸し暑かったという記憶がやけに鮮明で。
北海道の片田舎の農村地帯は、平地が広くて、地平線まで連なっているような畑の畝など「空間の圧倒的な広がり」を日常的に感じる場所だった。
音が地面に吸収されるのか、とても静かで。(まあ、もともと車もあまり通らないような場所なのだが。)畑の間を縫うように続く舗装道路の上で、自分たちが漕ぐ自転車の音だけがあたりに響いていた。
一言でいうと、何もない日。何事も起きない平和な日。それが日常の風景。
その日もそんな風な、何もない日常の一コマになるはずだった。
と、その前に。
地震に備える。というテーマのテレビ番組や、各自治体のリーフレット、その他書籍が当時からたくさんあった。確かその頃から、来るべき東海地震に備えてなどといったキーワードで地震への対策が叫ばれていたように記憶している。
夕食時、一家だんらんの友はテレビだったから、そういう情報も自然と頭に入ってきていた。その他、回覧板などでも、触れられることがあり、情報は十分にあったため、脳内で簡単なその時のシミュレーションを繰り返していた。
揺れを感じたら、ガスを消して、ヒューズ落として、机の下に入って、、
その深夜のこと。
その日は、確か、深夜になっても暑さが残っていた。風呂上りの22時頃、いつものように、寝る前のルーチンということで、ベッドに寝そべって本を読んでいた。本を読んでいると自然と眠くなってくるのだ。
そろそろ、寝ようかと思ったその時。
衝撃があった。
「どこかの酔っぱらいが、ものすごい勢いで玄関のドアを開けたのか?」
そんな感覚だった。
その刹那、まず電気が消え、その瞬間、猛烈な揺れが襲った。
もう、何もできないまま、しばらくベッドの上にいるしかなかった。とっさの行動はまず不可能だった。
何が起きたのか?
という脳内の問いに対して、自ら回答を得ることも難しい。
「何かがあり、電気が消えた。」
最初に知覚できたのはそんなことだった。
地震だ。
と脳が理解したのは、数秒後だったろうか。(試してみるとわかるが、数秒も結構長い)
暗闇の中で棚からモノが落ちる音が聞こえる。その音でこれは現実だと思えたのかもしれない。
どうしたものか。1階に降りるか。降りたら安全だと思ったわけではなく、母が1階にいたからだ。2階の隣の部屋の弟を連れ出し、1階に降りるも、まだ揺れ止まぬ。モノが落ちる音もずっと聞こえている。
永遠の様に思える暗闇。
そして、やがて地震が止む。おそらく十数秒あったかどうかだろうか。
まさに一瞬と永遠の長さを感じた瞬間だった。
当時その地域に震度計は無く、正味震度5という発表だったが、東日本大震災の東京の揺れと比較すると、それ以上あったことは間違いないだろう。(幸運にも、居住していた町は、山間の田舎町で、土地が広かったということもあり大きな被害はなく。)
というわけで
おそらくとっさの行動は無理である。
そして、予想以上に、ものが落ちる。
そして、予想以上に、頑丈な棚もある。
つまり、寝室の手元に避難グッズを置くのがベストだということだ。(棚の近くに寝ないことも重要)
とっさに動けなくても、手の届く範囲に、避難グッズがあれば、安心できる。
また、通勤途中で災害に合う可能性も考えて、帰るまでの道や、勤務地周辺の避難状況も見ておく方がよいのだろう。
個人的には、地元の避難場所、災害遭遇時のSNS活用などは家族で取り決めている。
あの日、地平線まで連なるかのような畑の畝の真ん中で、のんびりと自転車を漕いでいた午後。あの日の夜に、あれほどの揺れが来るとはだれもが思っていなかった。
ただ、あの日を経験したからこそ、できることがあると思っている。
それはしっかりやっておこうと思っている。
阪神大震災の日に。