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「ハナコが教えてくれた生き様~ある獣医師との出会い~」〈19〉

 私が若かった当時、あの頃は長男と長女が結婚することはかなり難しかった。それぞれ家を継ぐ者として育てられ、長男は良い嫁を、長女は良い婿を家に迎えることが良しとされ、つまり自由な恋愛なんてあり得なかった。

 長女の私は当然、子どもの頃から良いお婿さんを探さなければいけない、それが当たり前だと言い聞かされて育ったものだから、男性を長男なのか、そうでないのか、それだけで判断するようになっていた。第一印象で、ちょっといいなと思った人がいたとしても、長男と分かれば恋心はあっさり封印した。

 そんなのおかしいとも気付けなかった私は、両親の思うまま、素直で良い長女に育った。親に逆らうこともなかったし、長女として大切に育てられた。ほしいものは何でも買ってもらえた。犬がほしいと言えば、犬も飼ってもらえた。きっと親たちは私のことを犬みたいに首輪をつけて鎖につないでおきたかったのだろう。何が何でも家に留まらせておきたかったのだろう。私は物質的には何の不自由もない実家での暮らしで、心だけ不自由な生活を強いられていた。そのことに気付くまで時間はかかったけれど…。

 3歳の頃に買ってもらった犬の「ハナコ」は、私が高校生になる頃にはだいぶ老犬になっていた。ハナコとの別れはそう遠くはないんだろうと感じていた。せめて私が高校を卒業するまでは生きてくれたらと願っていた。高校を卒業したら、ちょっと就職して、職場で素敵な長男以外の人を見つけて、寿退社すると私の人生はもうすでに決まっていたから、ハナコとは少しでも自由でいられる子ども時代の間だけ、友達でいられればいいと思っていた。私も結局、親が私にするように、ハナコのことを都合良く扱っていたのかもしれない。私は婿をとるための道具で、ハナコはそんな道具みたいな私にもある寂しい心を埋めてくれる道具だった。

 高校を卒業し、就職する前、最後の春休みをのんびり過ごしている時、ふとハナコの首輪とつながれている鎖が気になった。ハナコはうちに来て以来、一度だって自由に駆け回ったことはなかった。もちろん毎日散歩はしていたけれど、それだって必ず人間の手につながれていて、狭い範囲でしか許されない自由だった。私に春休みがあるように、ハナコにだって春休みがあったっていいじゃないかとふとそう思ってしまった私は、ハナコの首輪から鎖を外した。
「ハナコ、好きに歩いていいんだよ。」
ハナコは賢い犬だったから、一度だって逃げようなんてしなかった。決められた散歩コースで満足し、一日の大半を犬小屋でじっと過ごしていた。見知らぬ人に吠えることもほとんどせずに…。
「ほら、外に出ていいんだよ。」
私はハナコを道路に出して、リードを持つこともなく、ゆっくり歩かせ始めた。本当はもっと若い頃にこうしてあげれば良かった。老犬になってしまった今さら、自由を与えても、もはや自由に駆け回ることもできない。
「ひとりで歩くと気持ちいいでしょ?」
ハナコは時々私の方をちらっと確認しながら、おどおどしながらゆっくり歩き始めた。自由を知らないハナコにとって、ひとりで歩くことはむしろ恐怖だったのかもしれない。
「ハナコ…私、もうすぐ就職して、なるべく早めにお婿さん探して…そしたら仕事やめて、家庭に入って、子ども生んで育てて…。もう人生決まってるの。長女として生まれた時からそう決められてたの。」
賢いハナコはリードにつながれていなくても、道から逸れることもなく、まして逃げるなんてこともなく、ほぼいつも通りの散歩コースをいつも通りのペースでゆっくり歩いていた。
「ハナコもうちに来た時から人生決められちゃったね…ごめんね。」
私はハナコが好きな歌を歌い始めた。
「もしも長女じゃなかったら、私、歌手目指してたかもしれないなぁ。」
ハナコは黙って私の歌を聞いてくれていた。子どもの頃からいつもハナコは何も言わずに私の歌を聞いては、そっと寄り添ってくれた。言葉なんて通じなくても、私の心を分かってくれているかのように、悲しい時、寂しい時は、ずっと側にいてくれた。

 静かだったハナコが突然、若かった頃のように駆け出した。
「えっ?うそ、ハナコ。まだ走れたの?」
初めて走ることを知った子犬のように、勢いよく駆けるハナコをあっと言う間に見失ってしまった。
「どうしよう…。ハナコが逃げるなんて思ってなかった…。」
私は「ハナコ」と名前を呼びながら、ハナコを探し回っていた。日が暮れる前に探し出さないと。こんなことになるなら、やっぱりリード持っておけば良かった…。

 「どうしたんですか?」
見知らぬ男性から声を掛けられた。
「犬を…ペットの犬を探しているんです。ハナコという名前の犬で…。」
「犬ですか?犬なら、さっきそこの交差点で見かけましたよ。だいぶ交通量の多い時間帯になって来たから、早く捕まえないと危ないです。」
その人に促されて、慌てて交差点へ向かった。たしかに車の量が増えていた。ハナコ…飛び出したりしないよね。車は危ないって分かってるからきっと大丈夫だよね。そう祈りながら、ハナコを探していると、道路の片隅にハナコの姿を発見した。
「ハナコ!」
様子がおかしかった。ぐったりしている。
「もしかして…車と接触したんじゃないでしょうか?」
「えっ?外傷もないのに?」
「頭を打ってしまっているのかもしれません。念のため、病院で見させてください。実は私、獣医やってるので…。」
その男性は獣医師だった。彼はハナコを慣れた手つきで介抱すると病院で診察してくれた。
「良かった、頭は打っていなかったようです。でも、だいぶ弱ってますね。老衰に近いというか…。散歩中、逃げられてしまったんですか?」
「そうですか…事故じゃなくて良かったです。いえ、逃げられたというよりは逃がしたんです。まさか走れる力が残っているとは思わなくて…。」
「逃がした?そうですか…逃がしたんですか…。あなたのやさしさはペットの命に関わる場合もあるから、ほどほどにして、気を付けてくださいね。」
彼はそう言って、静かに微笑んだ。

 それから間もなく、春休みが終わる前にハナコは息を引き取った。私が望んでいた通り、わずかでも自由な学生時代限定の友達でいてくれたハナコ…。本当はもっと一緒にいたかったし、二人で本当の自由を経験してみたかった。二人で自由に生き続けてみたかった。首輪を外して、夢を追いかけてみたかったね…。

 ハナコを裏山の桜の木の下に埋葬した後、ハナコといつも一緒に行っていた公園に行き、ブランコに乗って、ハナコの好きだった歌を歌っていた。まだ涙は流れなかった。ハナコがいなくなってしまったことが信じられなくて…。

 「素敵な歌ですね。」
そこにあの時、ハナコを診察してくれた獣医の男性がやって来た。
「あの節はありがとうございました。ハナコ…今日、息を引き取ったんです。」
「そうでしたか…。ご愁傷さまです。ハナコちゃんはあなたみたいなやさしい人と過ごせて幸せだったと思いますよ。」
「やさしくなんかないんです。私はただ…ハナコを子ども時代の友達みたいに思ってて、就職するまで一緒にいられればいいって勝手にハナコの人生を決めつけてたんです。4月になったら、働き始めるので、だからほんとにその通りになってしまって…。」
「そうですか…。でも別にあなたがそう思っていたとしても、生き物の寿命はそう簡単に思い通りにはなりません。突然、亡くなってしまうこともあるし、何年も闘病を続けて、長生きする場合もある。たまたまハナコちゃんの寿命と、あなたが就職する時期が重なっただけです。自分を責めることはありません。」
獣医師の彼にそう言われて、私は初めて泣くことができた。ハナコが死んでしまって、心の傷を癒やしてくれたのは彼だった。

 でもその彼は私より、20歳以上年上で、おまけに長男。好きになってはいけない人だった…。ハナコと別れた高3の春休み、私の子ども時代が終わると、何かが始まる予感がした。

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『ヨルノアカリ物語』主な登場人物 (※名前が決定している人物のみ)

「春夏秋冬」、「雪月花」、「花鳥風月」、「雪星香」4部作・全20話、「ヨルノアカリ物語」です。すべて1話ごとに完結している連作群像劇です。読み切り連作です。

若者なら誰でも密かに隠し持っている自分の弱点、欠点、短所など負の部分を、日常的に誰かと関わることによって克服できるかもしれない淡い希望の物語です。
派手ではない単調で退屈な日常、うまくいかず、やるせない日常を過ごしていても、ちょっとしたことがきっかけで、人生にほんのり明かりが灯るかもしれない瞬間があることを伝えたくて描きました。
ひとつのバンドを巡って、悩み、コンプレックス等を抱えた人物同士が出会い、結び付き、それぞれの人生が少しだけ良い方向に変わるかもしれない物語です。

「春秋冬~夏を求めて~」〈1〉

「春夏秋~冬のつまずき~」〈2〉

「春夏冬~秋なんて嘘~」〈3〉

「夏秋冬~春の憧れ~」〈4〉

「雪月花~花の記憶~」〈5〉

「雪月花~雪の後悔~」〈6〉

「雪月花~月の夢の行方~」〈7〉

「夏の冬~幸せと不幸せの間で揺らめいて~」〈8〉

「雪と花~月の正体~」〈9〉

「鳥風月~羽ばたく 花の名~」〈10〉

「花風月~ナカナイ鳥~」〈11〉

「花鳥月~風が凪ぐ~」〈12〉

「花鳥風~スイマー ドラマー 真昼の月~」〈13〉

「雪星香~若者たちの夢を刻んだ 追憶のドラム~」〈14〉

「雪星香~色褪せない若者たちの絆の香り~」〈15〉

「雪星香~若者だった大人の日常にきらめきを~」〈16〉

「多恵が結んだリボン~タロウとハナコの運命~」〈17〉

「芽実が咲かせた花~ハナコとタロウの再会~」〈18〉

「ハナコが教えてくれた生き様~ある獣医師との出会い~」〈19〉

「あの時みつけた夜の明かり~明里と慈朗と多恵~」〈20〉

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