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「夏海のはじまり」~13年後の『海のはじまり』海と弥生の葛藤~(二次小説)

※ドラマの第7話までを視聴し、13年後の海と弥生を想像して書いたお話です。弥生が海の母親になるかどうか雲行きが怪しくなってきましたが、仮に母親になったとして、こんな13年後もありかもしれないと考えました。海と弥生が親子になるかどうかはさておき、弥生が産めなかった子に対して、どう思っているかということを描きたかったので、最終回を待たずに書きました。以下、本編です。

 夏休み、大学二年生・二十歳になった海が、半年ぶりに帰ってくる。誕生日をお祝いするご馳走は何がいいかな。海が大好きなコロッケは、やっぱり外せないよね。それから二十歳になったら飲みたいと楽しみにしていたお酒も準備しなくちゃ。
「ただいまー」
「おかえり、海。なんかちょっと痩せた?」
「あ、うん…夏バテ気味で。」
「そっか、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。弥生ちゃんは…ちょっと太ったんじゃない?」
「うん、ちょっとね。」
月岡くんと海ちゃんと一緒に三人で暮らしたのは十年くらい。海の母親になって十年以上過ぎたけれど、海は未だに私のことはお母さんではなく、弥生ちゃんと呼ぶ。それでいいと、その方がいいと私は思っている。海の産みの母親は水季さんだし、私は育ての母親代わりでしかないのだから。本当の母親になり損ねた私を母親として迎え受け入れてくれた海は、私の心を癒してくれた救世主のような存在で、感謝しても感謝しきれない。
 海は父親のことも、しばらくの間は夏くんと呼び続けていた。中学生くらいになってようやく、お父さんと呼ぶようになった。私も夏のことを月岡くんと呼んでしまう癖はなかなか抜けなかった。海が夏くんと呼ぶようになったおかげで、私も月岡くんから夏くんと呼べるようになり、海がお父さんと呼ぶようになって、やっと私もお父さんとか夏って呼べるようになった。家族の呼び方なんてどうだって良くて、家族として認め合い、真剣に向き合いつつ、たまにふざけて笑い合えるような居心地の良さの方が大事だと私は思う。
 
「海―二十歳の誕生日おめでとう。」
夏がバースデーケーキを抱えて帰ってきた。
「海の好きなすみっコぐらしのアイスケーキにしたよ。」
「お父さんってば、私を何歳だと思ってるの?もう大人だよ?でもありがとう。」
「大人がすみっコ好きでも別にいいんじゃない?私は好きだよ、とかげとか。海のおかげで、大人になってから、すみっコ好きになれたの。」
私はすみっコぐらしが好きな海の影響で、今となっては海よりすみっコにハマっていた。特におかあさん想いのとかげ推し。だから夏が買ってきてくれたアイスケーキは海より私の方が喜んだくらいだった。
「海は…ねことしろくまが好きだよね、とかげは私がもらうねー。」
キャラクターのチョコが乗ったアイスケーキを小皿に取り分けていると、海はとんかつとえびふらいのしっぽのチョコが乗っている部分を小皿に取り、さっさと水季さんの写真の前に持って行った。
「ママは揚げ物が好きだったから…。自分で作るんじゃなくて、スーパーのお惣菜。値引きシールが貼ってあると喜んでたな。」
「海―アイスケーキは溶けちゃうから、お供えには向かないよ。水季の分なら、ちゃんとゼリーを買って来たよ。」
夏は海をイメージしたような星型の寒天入りでホイップクリームも乗った水色のゼリーを水季さん用に供えながら、海に向かって言った。
「ゼリーもいいけど、みんなで同じものを食べたいんだもん。」
子どものようにふてくされた海が呟いた。
「そっか。じゃあそのとんかつとえびふらいのしっぽのチョコをホイップクリームの上に乗せたら?もっと素敵なゼリーになると思う。」
「さすが弥生ちゃん、それいいね。」
海は喜んで夏が水季さんのために買ったゼリーの上に、あげっコたちのチョコを乗せた。
「すみっコゼリーの完成。」
「じゃあお父さんは、チョコなしのアイスケーキをいただくよ。」
夏は文句ひとつ言わずに、チョコなしアイスケーキをおいしそうに食べ始めた。
「お父さんにはぺんぎん?の部分をあげようと思ってたんだよ?」
「それは弥生さんが食べていいよ。とかげひとりじゃ、寂しいでしょ?」
夏は相変わらずやさしい。私にも、とかげに対しても愛がある。
「お父さん、私のねことしろくまもあげるー。」
海は大好きなはずのチョコレートを夏のアイスケーキの上に乗せた。
「えっ?海のバースデーケーキなのに。どうしたの?具合でも悪い?」
夏が海の心配をし始めたものだから、私がフォローした。
「そう言えば海は夏バテ気味って言ってたもんね。無理しなくていいよ。食べたいものだけ食べたらいいんだから。」
「うん、ありがとう。弥生ちゃん。」
海はアイスケーキとコロッケは一口食べた程度で、本物のとんかつやエビフライ、パスタやお酒には手をつけなかった。
「海…お酒飲むの楽しみって言ってなかったっけ?」
海と一緒にお酒を飲めることを密かに楽しみしていた夏は残念そうに言った。
「夏バテの時はアルコールなんて受け付けないでしょ。仕方ないよ。これから先、いつでもお酒なら飲めるんだから、体調のいい時でいいじゃない。」
私はノンアルコールのグレープフルーツチューハイを飲みながら言った。
「そう言えば、最近は弥生さんもアルコール飲まないよね?」
夏は不思議そうに尋ねた。
「太ったから。ちょっと自粛してるの。」
「そうなんだ。じゃあ海と弥生さん、お酒の代わりに飲みたいものや、食べたいものある?用意するから。」
「グレープフルーツジュースとフライドポテト。」
示し合わせたわけでもないのに、私たちは口を揃えて言った。
「二人して同じ物が食べたいんだ。ちょっと待ってて。グレープフルーツのスムージー作ってあげるから。それから冷凍のフライドポテトあったよね?俺が揚げるよ。」
夏は私たちのリクエストに応えようとキッチンへ向かった。コロッケととんかつとエビフライ…一から手作りして揚げるの時間かかったんだけどな。結局、今夜のご馳走は冷凍ポテトか。私は海が食べない分、揚げ物をむしゃむしゃ口に運んでいた。アルコールを控えても、ますます太ってしまうと思いつつ…。
 
「今日は疲れたからもう寝るね。おやすみなさい。」
まだ夜の九時だというのに、海は早々に自分の部屋へ戻り寝てしまった。
「なんか海、元気ないよね?ほんとにただの夏バテなのかな?」
寝室で二人してベッドに横になると、夏がぽつりと呟いた。
「そうだね…夏バテ以外にも何かあるのかもね。」
「弥生さん、明日、海にさりげなく聞いてみてよ。海は俺より、弥生さんの方が話しやすいと思うから。」
「うん、分かった。聞いてみるね。私も海に話したいことあったし。」
私にはまだ夏に話せていないことがあった。本当は一番に話すべき相手は夏と分かっていたけれど、言い出しにくくて、夏より先に海に打ち明けようと決めていた。
 
 「おはよー弥生ちゃん。実家のせいかな。寝過ごしちゃった。ひさしぶりに髪、結ってあげる。」
夏が出勤した後、十時間以上眠っていた海がやっと起きてきて、私の髪を結うと言い出した。
「えーいいよ。それより私が海の髪を結ってあげようか?」
「遠慮しないで。弥生ちゃん、昔は毎日髪型、ばっちり決まってたのに、最近は手抜き気味だよね。」
「当時は若かったの。今はそんなばっちり決める歳じゃなくなったから。」
「大人になってもすみっコ好きなのと同じで、歳は関係ないよ?何歳になってもオシャレした方がいいと思う。編み込みでいい?」
「そう?じゃあ、編み込みでお願いします。」
海は髪を結うのが上手だった。ほとんど私が結い方を教えたんだけど、特に編み込みは私以上に手際が良かった。
「海は…髪の扱いが上手だから、美容師とかも向いてるかもね。」
「うん…そうかな。ありがとう。弥生ちゃんが教えてくれたからだよ。」
海は私の髪を梳かしながら照れたように言った。そしてやっぱりどことなく元気がなかった。髪の触り方に迷いがあるというか…。
「海さ…大学で何かあった?悩み事あるなら、何でも話、聞くよ?」
「うん…ありがとう。あのね、弥生ちゃん…。」
私の髪から手を離した海は、背後にいたから私には見えないはずなのに、肩を震わせて緊張しているのが伝わってきた。
「うん、どうしたの?」
「まだお父さんには言わないでほしいんだけど…弥生ちゃんに先に相談したくて。というか弥生ちゃんしか私には相談できる人がいなくて…。」
「うん、大丈夫。お父さんには内緒にするから。」
「あのね…私…妊娠しちゃった。もうすぐ九週くらい。」
思わず私は固まってしまった。娘ができた時から、いつかこんな日が訪れるだろうと思ってはいたけれど、まさかこんなに早くその時がくるなんて、想像したこともなかった。
冷静にならなきゃ。海は私を頼って、私を信じて打ち明けてくれたんだから。産んだ経験はないけど、妊娠して葛藤して、苦しんで悔やんだ経験なら、誰より分かっているつもりだから、海を突き放して、ひとりで苦しませるようなことなんて絶対にしない。こんな時、たぶん夏は頼りにならない。私が海の味方になる。海がどちらの選択を選ぶとしても、海自身が納得して幸せになれるように、私は海の手を離さないし、海を支え続ける。

 私は振り返り、海と向かい合った。
「そっか、妊娠したんだね。海はどうしたいと思ってる?相手は…知ってるの?」
「相手は…付き合っている彼で、同じ大学で同い年の雪音(ゆきと)くんっていうの。雪音くんはやさしいから、私が産みたいなんて言ったら、きっと大学辞めて働くって言うと思う。それがつらいから、堕ろした方がいいのかなって悩んでる…。彼に責任を負わせたくないし…。妊娠したことは報告したけど、海がどっちを選んでも俺は海の味方でいるって。産むことも堕ろすことも男はできないから、せめて側にいたいって。」
海はうつむきながら、言葉を探すようにゆっくり話してくれた。
「そっか、雪音くんっていう彼なんだね。自分の人生守るために海に選択肢も与えないで、一方的に堕胎を請求するような男の人じゃなくて良かったよ。産むことも、諦めることも、いずれにしても、最終的には海自身で決めないといけないことだから。雪音くんも私も、海の味方だけど、決めてあげることはできないの。周囲の意見に左右されて、後悔してほしくもないし、すごく大事なことだから、誰に反対されようと、海に選んでほしい。産むか産まないかどちらかしか選択肢はないけど、誰の人生でもなく、海の人生だから。それから…おなかの子の人生、運命を決められるのは母親である海だけなの。」
「うん…ありがとう、弥生ちゃん。そうだよね。私が決めなきゃいけないことだよね。誰のせいにしたくもないし。私は…産みたい。大好きな雪音くんの子だから、すごく会いたい。けど、雪音くんには迷惑かけたくない…。雪音くんにはちゃんと大学卒業してほしいし。だから悩んでるの。妊娠したって分かった時から、ずっと…。」
「海が決断しなきゃいけないことだけど、悩んだり迷ったりしている時、相談に乗ってあげることはできるし、役に立たないかもしれないけど、多少は助言もできる。一緒に考えることはできるから、安心してね。私はいつだって海の味方だから。どちらを選択しても、それは海の幸せのためだよ。私は海の幸せを願っているからね。難しいかもしれないけど、自分が幸せになれると信じられる方を選べばいいんだよ。」
「今の弥生ちゃんの言葉って…ママの魔法の言葉みたい。ママはね、幸せになるためなら、ちょっとくらいずるしてでも、自分で選んで、決めることが大事って口癖のようにいつも言ってたの。悩んだ時、自分で決められる人になってねって。でも独りよがりにならずに、たまには誰かの意見を聞き入れることも大事だって…。ママは何でも自分で決めちゃう人だったけど、一番大切なことは、魔法の言葉をくれた人の考えを知って、自分で決めたんだって。ママが生きてたら、どっちを選ぶのが正しいって教えてくれたかな…。」
「産むのが絶対正しいとか、産まないのが間違いってわけではないと思う。産んで上手く育てられる人もいれば、産んだのはいいけど、育児に向かなかったって気づく人もいるだろうし…。産まなくて良かったと思うことはないとしても、今の自分じゃ産めないし育てられないって諦めるのは間違いではないと思う。境遇や年齢次第で変わる場合もあると思うし。できれば産みたいって思うのはきっと本能だよね。」
「出産を考えるのも、中絶を考えるのも怖くて仕方ないの。ほんとはどっちも選べない。けど、どっちかしかないから。私次第で、おなかの子の人生が決まってしまうのかと思うと、怖い…。でも産むのが絶対正しいとか、産まないのが間違いってわけではないんだね。産みたいし、会いたいと思えるのは生き物としての本能なのかな…。私にも母性本能があったのかな。信じられないよ。私、他の人と比べたら、子ども大好きとかそういうタイプじゃなかったから。」
「海の気持ち、わかるよ。どっちも怖いよね。実は私も、海に話したいことがあってね…。海と一緒に行きたい場所があるんだけど、いいかな?」
水季さんが海に教えた魔法の言葉って、まるであの時、私が病院のノートに書き残した言葉と同じだと思った。水季さんと私は考え方に似ている部分があったのかもしれない。
妊娠している海を連れて行っていい場所ではないかもしれないと少し迷いもあったけれど、妊娠して葛藤しているからこそ、連れて行くべき場所とも思ったから、私は海をあの場所へ連れて行くことにした。そしてそこで私の話を打ち明けようと思った。あの子にも報告したいことだから…。

 「えっ…ここって…。」
「ロッカー式納骨堂。と言っても、九週の子だったから、亡骸も骨も細胞の一欠片さえ、もらえなかったから、遺灰や遺骨はなくて位牌だけなんだけど…。火葬の義務がある十二週以降じゃないと母親は引き取らせてもらえなくて、衛生上、十一週までの中絶だと病院が胎児を引き受けるルールがあるらしいの。母親なのに子どもを引き取らせてもらえなくて、何も残らないことが悲しかった。自分の中にいた命なのにね。この子のことは一度も手で触れたり、抱いてあげることができなかった…。」
私は夏にさえ教えていない、産めなかった子の位牌を置いて供養しているロッカー式納骨堂に海を連れてきた。
「それってつまり…。」
「中絶したことがあるの。社会人になってすぐくらいの歳に。産めていたら、海と同い年の子。」
「そっか……弥生ちゃんは産めなかったんだ…。私にはお父さんがくれたお守りのネックレスの中にママがいるけど、弥生ちゃんには何もないんだね…。遺灰さえないなんてかわいそう…。」
海はロッカーの中の位牌に向かって、手を合わせてくれた。
「すみっコぐらしのとかげのおもちゃとか、お菓子も置いてるんだね。」
「頻繁に来れるわけじゃないから、この子が寂しくならないように、お菓子とかおもちゃをお供えしてるの。生きていたらもう二十歳だから、おもちゃなんて要らない年齢だけど、私にとってこの子はいつまでも小さいままで、成長することはなくて…。」
私も手を合わせながら、ロッカーの中をみつめた。このロッカーの中だけは時が止まっているように見えて、あれからもう二十年も過ぎたなんて夢のようだった。まさかここに海を連れてくる日がくるなんて、それも考えたこともなかった。ずっと誰にも教えることはなくて、私とこの子だけの秘密の場所って思ってたから…。

 「弥生ちゃんはどうして…諦めちゃったの?」
「そうだね…相手は、仕事でキャリアを積む方が大事だよね、手術はいつするのって即そんなことを言う人だったし、母親も相手が産むなというなら、じゃあ堕ろしなって…。二人とも私の気持ちは聞いてくれなくて。でもね、後から思ったんだけど、私は人生で一番大事なことで、自分で決めなきゃいけないことを、全部他人の意見に委ねてしまって、自分で決められなかったのが良くなかったなって。中絶の罪悪感というより、周りの意見に流されてしまって、自分の本心を殺した自分自身が悔しかったし情けなかった。味方をみつけられなくてっていうのは体のいい言い訳に過ぎなくて、誰もいなくても自分さえしっかりしてたら、この子の命を守って産んで育てられたのにって、しばらくは味方になってくれなかった相手や母親より誰より、自分が自分の敵(かたき)だったよ。そういう風にしか考えられなくなってたどん底の時期があったの。」
「そっか…弥生ちゃんは相談に乗ってくれる人さえいなくて、つらい思いをしたんだね。誰も味方してくれなかったら、産めないってなる気持ち、すごく分かるよ。一人じゃ心細いもの。」
「せめて自分を自分の味方にできたら良かったんだけどね。当時の自分は周りに流されてばかりで、自己主張が苦手で、もっと誰に何と思われようとも欲しいものは欲しい、守りたいものは守りたいって欲張れば良かったよ。海のママ…水季さんはすごいよね。ちゃんと自分の気持ちを大事にして、誰にも頼らずひとりで産んだんだから。」
「ママは自分の意見はっきり言う人だったから…私も自己主張は苦手だったから、おばあちゃんからはもっと水季みたいにわがまま言っていいのよって言われたこともあったよ。二十歳で私を授かって、迷わず大学やめて産むって決めたママはすごいなって思う。私はママの真似はできないよ…。」
「悩まなかったってことはないと思うよ。どんなに自己主張できる人でも、ふいに命を授かったら、戸惑うと思うもの。あのね…海、お父さんからいつか海に渡してほしいって頼まれていたものがあるの。」
私は夏から託されていた水季さんが書いた海の母子手帳とそれからそれに挟まっていた中絶同意書をあえて隠さずに見せた。
「私の母子手帳と…それから同意書…?」
海がショックを受けると分かっていてそれを見せた私は、母親失格かもしれない。けれど、授かった命を産むか産まないかで悩んでいる今の海には隠すことなく、すべてを見せた方がいいと思った。命っていうのは簡単に生まれてくるものではないということを伝えたかったから…。
「そっか…ママとお父さん…はじめは私を堕ろすつもりだったんだね。そうだよね。大学生ならそう考えるのが普通だよね。」
「お父さんはね、むしろ思い止まらせようとしたらしいよ。堕ろす以外の選択肢はないの?って…。でも海と同じく、相手に迷惑かけたくないって水季さんは考えてしまったみたい。でも最終的には、お父さんに内緒で、ひとりで産もうって決めたみたい。」
「そっか…あの気の強いママでさえ、妊娠した時は気持ちが揺らいだってことだよね。思い出した…。魔法の言葉のこと。幸せになるために自分で選んで決めることが大事ってことをね、教えてくれたのは私を産んだ病院で出会ったノートを書いた人なんだって。その人に会ったことはないけど、ノートのその言葉が海のはじまりなんだよって、教えられたこと、今思い出したよ。」
「えっ…?病院のノート…?それが海のはじまり…?」
「ママは人の意見に左右される人じゃないけど、その魔法の言葉を教えてくれた人の意見には左右されたって。自分が幸せに生きられる考えを教えてくれた人だって言ってた。もしかしたら…中絶をやめたのはその人の影響かも。私、その人のおかげでこの世に生まれられたんだね。会ったことはないし、これからも会えないと思うけど、一生感謝しなくちゃ。だって、生まれられたおかげで、ママやお父さん、弥生ちゃんに出会えたんだもの。」
懐妊した時期が近いから同じ病院に通っていても不思議ではない。もしかしたら、水季さんは、中絶後に失意のどん底で病院のノートに綴った私の言葉を読んだのかもしれない。もしそうだとしたら、堕胎した子と中絶後罪悪感に苛まれた私は報われる。命を失ったことで、新たな命を守ることができたことになるから…。
「きっと…きっとその魔法の言葉を書いた人も、海が生まれてくれて良かったって思ってると思うよ。産めなかった自分が命を救えて良かったって。あのね、海。産めなかったけど、この子の名前は考えていたの。エコー写真に勝手に出産予定日も記載されるのよね。夏に生まれる予定だったから、夏海。男の子なら、なつうみ、女の子ならなつみって読む名前にしようって決めていたの。すごく短い間だったけど、おなかの中に命が宿った喜び、この子の心拍を見れた時の幸福感、産めないかもしれないと悩んで、泣いたこととか全部、いろんな感情をこの子から引き出してもらったのに、自分の中にこんなに感情があるんだって、素敵なものを大事ななものを抱えきれないくらいもらったのに、何もあげられなかったから、せめて名前だけはあげたいって考えたの。そして心は死んだようにどうにか生きていた頃、月岡くん…夏くんと出会って、夏と出会えたおかげで、海とも出会えて。夏海が二人に引き合わせてくれた気がして、うれしかった。誰より会いたくても会えなかった夏海に会えた気がして、すごく幸せだった。私の夏海のはじまりはね…夏と海というかけがえのない二人だと思ってるよ。」
「そっかー弥生ちゃんの子の名前は、なつうみくんかなつみちゃんだったんだ。私も会いたかったな…。同級生ならどこかで出会えていたかもしれないよね。夏海って名前のお父さんと私が弥生ちゃんの悲しみを少しでも癒やせていたら、うれしいよ。」
「海に話したかった話はね、夏海のことだけじゃないの。」
「えっ?そうなの?」
「実は私も…妊娠してるの。海と同じくらいで、もうすぐ九週。」
「えっ?そうなんだ!おめでとう。うれしい。」
海は戸惑う様子もなく、すぐに喜んでくれた。
「ありがとう…でも、まだお父さんには話してなくて。高齢出産になるし、どうしようって悩んでいて…。もちろん、中絶のつらさはよく分かってるから、それも考えたくないのに、今の私の年齢で無事に産めるか不安で…。流産や死産になってしまう可能性だって高くなるし…。」
私は夏海が眠っているここで、話したかったんだと思う。夏より先に、夏海に報告して、産むとしたら、許してもらいたくて…。
「迷うことないよ。高齢出産って言っても、四十代前半で産んでる人は今の時代、たくさんいるし。出産はどんなに若くても高齢でも命がけって聞くし。私は、ずっと私がいるせいで、お父さんと弥生ちゃんは子どもを作らないのかなって、悲しかったんだよ。妹か弟がいる生活にも憧れていたし、弥生ちゃんに産んでほしかった。だからね、弥生ちゃんが産むって決めたら、私は全力で味方になるよ。弥生ちゃのことを支えるから安心して。」
自分の妊娠のことで悩んでいるはずの海が、自分のことはさておき、私のことを全力で応援して、味方になると言ってくれたことがすごくうれしくて、思わず涙が零れてしまった。
「海、ありがとう。そんな風に励ましてもらえるなんて…立場が逆だよね。私が海を応援しなきゃいけないのに。それにごめんね、子どもを作らなかったのは海のせいじゃなくて、単に授からなかっただけなの。中絶したことがずっと心にひっかかっていて、妊娠や出産に後ろ向きだったから、授かれなかったのかも。ずっと諦めていたのに、この歳になってふいに授かって、喜びより心細くなってしまって…。」
「そうだったんだ。私に気を遣っていたわけじゃないんだね。もしかしたらだけど、弥生ちゃんのおなかの子…私のことを励ますために来てくれたのかも。弥生ちゃんが妊婦仲間なら、がんばれる気がするし、二人一緒なら、出産も育児も乗り越えられる気がする。お父さんは同じ時期に子どもと孫が生まれて困るかもしれないけどね。」
私が妊娠を告白したことで、海は産むことに前向きになったらしい。
「そうだね。夏には同時に孫と第二子が生まれることになるね。私だって海が妊婦仲間なら心強いよ。でも…私が妊娠したことをきっかけに、産むと決めて大丈夫?」
「病院で心拍見せてもらって、エコー写真もらった時から、産みたいって気持ちは強くなってたの。でもいろんなことを考えると産まない方がいいのかなって、自分の本音を殺そうとしてた。もちろん弥生ちゃんの妊娠もきっかけのひとつにはなったけど、それだけじゃないから。私ね、ずっと、ママにはもう会えないんだって思い込んでたの。だけど、この子を授かったら、この子の命の中にはママの遺伝子も受け継がれているわけで、ママに再会できる気がしてうれしくなったの。赤ちゃんの頃とか、子ども時代の会えなかったママに会えるかもしれないって思うとうれしくて。幸せで…。だからね、弥生ちゃんだって、もしかしたらおなかの子は夏海くんの生まれ変わりかもしれないよ。会いたかった夏海くんにやっと会えるかもよ。そう考えたら、私たちが選ぶ選択肢はひとつしかないよね。」
「たしかに海の言う通り、生まれ変わりとか亡き人の遺伝子が受け継がれるってことはあり得るよね。夏海を授かった二十年前も…私は母親のことは苦手だったんだけど、母方の祖父母のことは大好きだったの。授かる一年前と半年前に相次いで二人は亡くなってしまってね。おなかの子は祖父母の生まれ変わりかもしれない。また祖父母に会えるかもしれないって考えたものよ。命の数は決まっていると聞いたことがあるし。」
「そっか、じゃあ今度こそ産めたら、弥生ちゃんは大好きなおじいちゃんおばあちゃんとも再会できることになるよね。命って相手と自分の遺伝子だけじゃなくて、それぞれのご先祖様の血が少しずつ受け継がれていると思うから、やっぱりすごく尊いものだと思う。」
「そうだね…命は尊いよね。私、当時は今より子どもだったから、産むか産まないの二択しかないのに、産めないならずっとおなかの中に留まらせて一つの身体を分け合って、二人で生きられたらいいと思ったり、私の子宮ごと子どもがほしい女性に移植して夏海のことを産んでほしいなんて、夢みたいなことも考えたりしてたよ。そんな選択肢はあり得ないのにね。」
「でも、そんな夢を真剣に考えてしまうくらい、夏海くんの命を守りたかったってことでしょ?弥生ちゃんは母親として、どうにかして、夏海くんを生存させようと必死だったんだと思う。今度こそ、自分の力で守ればいいよ。一緒に守ろう、お母さん。」
この時、海は初めて私のことを弥生ちゃんではなく、お母さんと呼んでくれた。ずっと呼び方なんてどうでもいいと思っていたけれど、お母さんと呼ばれると恥ずかしい反面、幸せな気持ちになった。

 「お母さん、今度コロッケの作り方、ちゃんと教えてね。ずっと側で見てたけど、最初から全部ひとりで作ったことはないから。」
「うん、いいよ。でも今はつわり、つらそうだよね。つわりが落ち着いたら教えるよ。においもつらいでしょ?」
「うん…でも、料理とか早くいっぱい覚えておきたいから。おふくろの味っていうのをこの子にも食べさせたいし。お母さんは食べづわり?食欲旺盛なのもたいへんだね。」
「おふくろの味か…ちょっと照れるね。そうそう、どうやら食べづわりみたいで。体重一気に増えすぎると妊娠糖尿病とかにもなり得るから気をつけないとね。」
「お母さん、マックに寄って、フライドポテト買って帰ろう。」
「そうだね、フライドポテトとそれから…グレープフルーツも買わないと。ポテトとグレフルなら水季さんにもお供えしやすいよね。一緒に食べられるね。」
「うん、ママにも産むことにしたって報告しなきゃ。ほんとはお母さんより先に…ママには妊娠したこと相談してたんだ。でもママは海が幸せだと思える方を選びなさいってしか教えてくれなかったから…。やっぱり自分で決めなさいって。」
「そっか、水季さんに一番に相談してたなら、安心したよ。海を産んでくれたのは水季さんだから…。」
海と立ち寄ったマックではback numberの『新しい恋人達に』が流れていた。
 
《閉じた絵本の 終わりのページで これは誰の人生だ 誰の人生だ 誰の人生だ 誰の人生だ 誰の人生だ…でもいつか君が誰かをどうにか幸せにしたいと願う日に 笑って頷けたとしたら それでもうじゅうぶんじゃないかと思う》

 水季さん、まさか水季さんが私の綴った文章を読んでいたかもしれないなんて、運命のいたずらには驚かされました。私はずっと、学生で相手にも誰にも頼らず、ひとりで産んで育てると決めた水季さんが羨ましくて、眩しくて、敵わないってちょっと妬んでいました。シングルマザーでたいへんなこともたくさんあっただろうし、病気も患って若くして亡くなってしまったことを考えると、そういう苦労を選べなかった私が妬んでいいはずないと分かっていても、大好きな相手の子を産んで、育てて…きれいな思い出がいっぱいでいいなって嫉妬してしまいます。でも…もし水季さんの中絶を思い止まらせたのが私の言葉だったなら、死んだ夏海と苦しんだ私は報われたと思います。中絶が悪と言いたいわけではありません。納得してその選択を選んで幸せな人生を歩める人もいると思うから。でも、ほんの僅かでもおなかの子の命に未練があったり、子どもと一緒に生きたい願望が捨てきれない人は安易に中絶を選ぶべきではないと思ってます。そういう人が中絶を選んだら、一生、消えない悔いや罪悪感が残ってしまうから…。水季さんが海と共に、七年という長くはない期間でも幸せな人生を歩む手助けができていたなら、私は救われました。私を導いてくれる光のような存在の海を産んでくれて、ありがとうございます。私を夏と海に出会わせてくれて、ありがとうございます。
 
 夏海、海に味方になってもらえたからってわけじゃないけど、お母さん、今度こそ授かった子を産むことに決めたよ。自分で決めたよ。夏海のことは産めなかったのに、すぐに手放してしまったのに、ごめんね。命を育んであげられなくて、産んであげられなくて、大人になるまで育ててあげられなくて、夏海の人生を守れなくて、ごめん。本当は生まれるのも死ぬ時も誰も選べないはずだし、命のはじまりと終わりは誰も選んではいけないことのはずなのに、お母さんが勝手に夏海の命を止める選択をしてしまって、ごめんなさい。夏海はちゃんと生まれて、長く生きたかったかもしれないのにね…。夏海を殺したのは自分だから、もう自分は出産を希望してはいけないし、妊娠してもいけないと思ってました。でも…どこかで会えなかった夏海に再会できたらとあれからずっと夢見ていました。お父さんは違うけど、夏海はおなかの子の命の中にも宿ってくれていると信じています。お父さんは違っても、お母さんの子には変わりないから。
 夏と海に出会わせてくれてありがとうね。夏海が引き合わせてくれたと信じているよ。海と出会えたから、あなたを産めなかった私だけど、お母さんになることができました。夏と出会えたから、またお母さんになるチャンスをもらえました。私、今度こそ、お母さんになるね。夏海とおなかの子のお母さんになるよ。
 お母さんになる勇気を与えてくれてありがとう。私は母親になる人生を一度は諦めたけれど、夏海たちのおかげで、また母親になる人生を選ぶことができました。誰かに与えられ、定められた人生じゃなくて、私は私の人生を手探りでもがきながらも自分らしく生きるよ。
 お母さん、今度こそ、幸せになるから。夏や海と出会ってずっと幸せだったけど、おなかの子を産んでもっと幸せになるから、安心して。だからどうか夏海もどこかで幸せになるために生まれ変わっていて。願わくば、私のおなかの子の命として…。

 そんなことを考えながら眩しい夏空を見上げていた私の側で、海が無限に広がる空に浮かぶ、真白な雲を指先でなぞっていた。あの雲、すみっコぐらしのとかげととかげのおかあさんみたいなんて無邪気に笑いながら…。

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