虹住人の抜け殻 (3)

* 

中庭には僕たちが塗ったヘンテコな配色のベンチが一つ、他のベンチとは生まれた場所が違うような雰囲気を纏い、僕を見ていた。ゆっくりと歩みより、そのベンチに腰かける。あの夢の詳細は未だにぼやけたままだ。だが、僕にとって、それだけでなく彼女にとっても、重要な出来事だったのではないだろうか。 エミコがやってきた。
「朝食べた?」
「食べましたよ。」
「昨日は岩鬼さんとずいぶん話し込んでいたみたいね。」
「僕の物覚えが悪くて。」
「バレバレだよ。岩鬼さん、嘘つくの下手だから。」
彼女の黒髪が風になびいた。彼女の横顔は嫌らしいほどシャープというわけではなく、かといってふっくらしているわけでもない。しかし、洗練された横顔のエミコを美しいと思ったのは紛れもない事実だ。だが、これは今芽生えた感情ではない。あの瞬間、ある線を越えて、その事実を、その存在を、自分で咀嚼し受け入れたと言えるかもしれない。
「岩鬼さんの昔の話を聞いてて。僕が質問攻めにしていたら、いつの間にかエミコさんのお仕事は終わっていましたね。」
「逆に良かったかも。」
「僕らは行っても邪魔だった?」
「そういうわけじゃなくて。一人でやったからこそ、見えてきたものもあって。岩鬼さんや君がいると、また別の神経を使わなくちゃいけないでしょ?」
「それって結局、邪魔ってことじゃないですか?」
「バレた?」
「バレてますよ。」
僕らは共に微笑み、その後も昔のお笑い芸人のあまり知られていない一発ギャグの話や耳に残る懐かしいCMソングの話など、とにかくくだらない話を昼まで飽きもせず続けた。正午を回ったころ、岩鬼が大きなあくびをしながら、こっちに向かってきた。
「お取込み中のところすみません。お二人さん。」
「岩鬼さん、ふざけないでくださいよ。」
「俺からおふざけを取り上げたら、何が残るんだ?」
「ただのおじさんですね。」
「ただの、はないだろ。もっといい所あるよな?」
「ちょっと考えておきますね。いいところ。」
「考えないと出ないのかよ。まあいい。そんなことより、お前らに話があって来た。」
いつになく真面目な表情に切り替わった。
「何ですか?」
「お前ら、今日は俺抜きで仕事してこい。お客様は既に決まっている。場所や内容はエミコを中心に決めるんだな。じゃあ、これ。今回のお客様の情報だ。ちなみにメインキャストはお前ら二人だ。サブに何人か連れていってもいいし、二人でやってもいい。ま、自由ってことだ。んじゃ俺は戻るよ。」
岩鬼はさっと煙草の火を付け、そのまま立ち去って行った。
「私たちがメインか。君も見学中なのに、大変だね。」
「この期間、ただ見ているだけかと思いましたよ。さて、何をしましょうか。」
「まずお客様の情報を見てそれから決めようか。」

僕たちは会議室102に入り、先ほど岩鬼からもらったお客様の情報を隈なく見ていた。名前は横瀬トオル。年齢は15歳で中三の男の子だ。坊ちゃん刈りの髪型と切れ長だが優しい目をしているのが印象的だ。情報によれば、4歳の時に父が他界し、母親が女手一つで育ててきた一人っ子だということがわかった。中学校では陸上部に所属し、走高跳びの選手として全国大会に出場した経歴を持つ。実際に僕らは、彼が跳んでいる様子を映像で確認した。顔立ちの柔らかさとは相反するような、手足の長さに僕たちもびっくりしたと同時に、身体の柔軟性も優れていることは容易に理解できた。また、身長も186センチと大柄で、競技には関係しないが、いわゆるそのウイングスパンの長さは身長以上である。バレーやバスケなどをしても活躍できるような身体を兼ね備えている、恵まれた体形を持ったアスリートタイプと言える。その他にも、彼に関する映像があったので、僕たちは走高跳びの映像が終わるとそちらのファイルを開いた。すると、先程のイメージは一瞬にしてひっくり返った。彼はギターを演奏していた。その映像は小規模なライブハウスでバンドの一員として演奏している彼を映したものだった。白色のストラトキャスターを華奢な少年が弾きこなす。民族柄のチュニックにアイスウォッシュのフレアデニムを着用している姿は、ウッドストックのジミ・ヘンドリックスを想起させた。もちろん、彼は日本人だし、肌の色や髪型、年齢も異なる。しかし、彼が醸し出す雰囲気は、走高跳びの時のものとはまるで異なっていた。15歳の少年に適切な表現かはわからないが、彼の演奏や佇まいに僕は色気を感じた。エミコは口を少しだけ開けて、僕の方を見た。どうやら僕らは同じようなことを考えていたらしい。長い序奏が終わり、彼は歌い始めた。これは僕も聴いたことがあった。ジミヘンのパープル・ヘイズという曲だ。歌の方は特別上手いというわけではなかったが、一般的な歌の上手さとはまた違った魅力が感じられた。個性的な歌い方と言ってもいいだろう。映像はその一曲だけだった。僕は正直、他の曲も聴いてみたいと思った。これからやらなければならない仕事はどうでもいいと感じられるほど、彼のパフォーマンスに圧倒されたのだ。表現力や技術力は、中三の男の子のレベルではなかった。終わったと思っていた映像の続きが再び流れ始めた。
「今日は見に来てくれてありがとうございます。トオルです。このメンバーでライブができて本当に嬉しいです。僕たちはこのライブが初めてで、これまではスタジオでの練習がメインだったんですけど、こういった機会があって、ライブができて幸せな気持ちです。一曲目はクリームのサンシャイン・オブ・ユア・ラブ。二曲目はオアシスのスーパー・ソニック。三曲目はレッド・ツェッペリンのモビー・ディック。そして今やったのが、ジミ・ヘンドリックスのパープル・ヘイズでした。僕らは曲を忠実に再現するのではなく、自分たちの解釈でアレンジを加えているので、原曲とは大きく異なっていたと思います。そしてこれから演奏するのは僕たちが作った曲です。タイトルは」

ここで映像が終わった。すぐにエミコが口を開いた。
「いつもいいところで終わる。今日もだよ。」
「そうなんですか?」
「上層部で私たちにどこまで情報を与えるかを毎回決めているみたい。だから、お客様についてすべてを知ることはできない。いつもいいところで終わるのがお決まりなの。」
僕たちはトオルにどのようなことを体験させるかについて意見を出し合った。学校生活の部活においては全国レベルを誇り、プライベートではギターボーカルとして華麗に弾きこなす彼に何を体験させようか悩ましかったのは事実だ。僕たちは死別した父に絡めた何かを彼に体験させることを優先しようと話がまとまった。おそらくではあるが、彼には父親の記憶がほとんどないのではないか。写真などでその姿を見たことはあるかもしれない。しかし、父親と一緒に遊んだような記憶はないのではないかと予想した。

「父親の友達ということで、岩鬼さんがトオル君の父親の古くからの友人ということで登場させて、父親とのバカ話を岩鬼さんが語る、というのはどうですかね?」
「それはいいアイデアだけど、岩鬼さんは、私たち二人がメインキャストでやれって言ってたから、お願いできないかもしれない。他のメンバーにお願いしてみるのはどうだろう?」
「古くからの友人役は岩鬼さんが適役だと思います。」
「どうしてそう思うの?」
「岩鬼さんは車中で音楽をかけていましたよね。その音楽のプレイリスト的にはトオル君と話しが合いそうなんです。」
「なるほど。確かに岩鬼さんは音楽通だから、その辺の話もできそうね。わかった。今から岩鬼さんを捕まえて交渉しようか。」
僕たちは岩鬼を捕まえに、建物内をウロウロした。中庭に行くと、僕たちが塗った色鮮やかなベンチに座っている岩鬼を発見した。早速、エミコは岩鬼に先程の案について詳しく説明した。すると岩鬼は言った。
「そうか。俺がメインキャストか。久しくメインを張っていなかったから感が鈍っているかもしれないが、お前らが考え抜いて出した結論だろ。わかった。俺がやろう。」
僕たちは岩鬼にお礼を言い、先程の会議室102に戻り、念入りに打ち合わせをした。

* 

医師法17条「医師でなければ、医業をしてはならない。」
医業とは医療行為を業としておこなうことである。俺はまだかろうじて医者を名乗ることはできる。免許を剥奪されたわけではないから。もちろん今後も医療行為を業としておこなうことは可能だ。しかし、俺は戻る気がなかった。あの場所へ戻ることは、彼とその家族に対する罪悪感を放棄することと同義だ。適切に治療がなされた時のステージⅢの胆嚢がんの生命予後は、2年生存率は約40%、5年生存率は約32%である。しかし、実際のところは適切な治療がおこなわれなかった。そう。俺には過失があった。そしてそれは一つだけではなかった。超音波検査における診断の誤りから生じた不適切な術式選択。術中の摘出標本の処理を誤って乾燥させたことにより存在したはずの胆嚢がんを見落とすという失態。さらに、胆嚢摘出に際し、遺残を生じさせるという手技ミスを犯した。結果的に彼は遺残部からの胆嚢がんの再発により亡くなった。俺を含む病院は彼の家族から訴えられ慰謝料等を支払った。この一連の過失はもちろん作為的ではない。不作為の過失だ。だからといって俺の過失が許されるわけではない。俺はあの時どうかしていたわけでもない。ごく普通のありふれた日常を過ごしていた。今まで細かいミスなどは確かにあった。しかし、患者にマイナスになるようなそんなミスは一度もなかった。今回が初めてだった。彼が死んでから俺は良く考える。なぜあの時ミスをしたのか。注意を怠っていなければ、確認をしていれば。人は簡単に死ぬ。命に関わる仕事をしているはずなのに命について何も考えてこなかったのかもしれない。俺はどうしても医者になりたくてなったわけではない。父親の死がきっかけであることは間違いないが、他の職業でも良かったと思っている。そうだとしても患者に感謝されるのは気分が良かったし、多忙ながらも充実したドクターライフを送っていた。しかし、ある一連の処置で俺の立場はひっくり返り、精神的にも追い込まれることとなった。

あの日以来、酒浸りの日々が続いていた。元々酒は好きではない。自分が酔うことで、自分のテンションを上げ、自分の可能性を広げるように錯覚させる魔法を確信犯的に使っている当時の同級生や先輩が嫌いだったからだ。酒がないと女の子としゃべれないとか、酒が入った席で語らわないと絆が深まらないとか、ストレスを酒で発散とか、そんなの糞くらえだと思っていた。だから、俺は医学部に入っても一匹オオカミのような存在だったし、友達も少ない。でも、それで不自由したことはなかった。少なからずいた他学部の友達や、行きつけのバーの店主など小さなコミュニティはあったから、学生時代は毎日が充実していた。俺は今、自分が一番嫌いな奴と同じになっている。その自覚は間違いなくあった。行きつけのバーで出会ったマユミという女性がいた。自分よりも年上だったマユミは、俺に多大なる影響を与えた。映画、文学、演劇、アート。そういったものに無縁だった医大生の俺は、アート気質な美大生のお姉さんに魅かれていった。マユミの方も医学や薬学について関心を持っていて、大学で今何をやっているのか、どういう研究をしているのかなどをよく聞いてきた。俺とマユミが一緒にいる時間が長くなってきた頃、マユミは言った。それはこんな言葉だったはずだ。

「根が真面目なのを悟られたくないの?その仮面は不要だと思うな。あなたは自分を適当な人間にわざと演出するところがあるじゃない。それ自体、相手との表面的な友好関係を築くのに寄与しているけれど、あなたが医者になるのならそれを改めたほうがいいよ。いつかその演出が真実味を帯びるときが来るから。」

戦後の焼け残りとも言えるような佇まいの家屋。年季が入ったその家のインターフォンを私は押した。
「はーい。今行きますね。」
少しかすれてはいるが高めの声を発し家主は姿を見せた。長谷川アキさん、72歳。見た目よりも若い印象で、髪も白髪が目立たず、小綺麗に後ろに結ってある。
「あなたがエミコさん?今日はよろしくお願いしますね。」
優しさがにじみ出ている声。チャーミングな笑顔。彼女は癒し系に違いない。
「それでは施術を開始しますね。この辺りが特に凝っていますね。」
「そうそう。左肩が特にね。右利きだから、利き腕でない方の左肩が凝り固まるのかしらね?」
「なるほど。そうかもしれません。」
「去年にね、主人が亡くなったの。長いこと入院していてずっと辛そうでね。ちゃんと生きているのに死ぬ方がましだなんてずっと言っていて。私も一人になってから色々と考えるようになっちゃって。なんかすみませんね、こんな話しちゃって。」
長谷川さんくらいの年齢になっても、生きることについて考えている。今この場所に一時的な雨宿りをしている私は本当の意味で生き長らえることを考えなればならない。生死の狭間で揺れる私を現実で生かすための方法を構築しなければならない。だからと言って何か最善策があるかというとないのが現状だ。
「エミコさん大丈夫?」
私は手が止まっていた。雨はいつ止むのだろうか。そんなことを考えながら私は施術を続けた。

「岩鬼さんですか?」
「おう。トオルか?」
「はい、トオルです。父がお世話になりました。」
「大きくなったな。最後にトオルと会ったのは、まだ2歳の頃だったはずだよ。だから俺の記憶はないだろう?」
「そうですね。でも、母から岩鬼さんのことは聞いていたので、知っていましたよ。」
「そっか。わざわざ来てもらってありがとな。」
僕たちは岩鬼とトオルがいる喫茶店に客を装ってアイスコーヒーを飲みながら彼らの様子を眺めていた。
「ここはな、よく君のお父さんたちと来た場所なんだよ。打ち合わせでも使ったし、プライべートの話もよくしてな。あいつは本当にセンスあるギタリストだった。なぜ俺らとバンドを組んでいたかがよくわからないほどだよ。学生の時にそれぞれ出会ったわけだけど、このままバンド活動を続けてそれで食っていくという選択肢もあったんだ。特にあいつは、一番このバンドを続けたいと思っていたんじゃないかな?」
「でも、僕が生まれることになった。それが原因でバンドは解散。岩鬼さんは予定通り医者になった、そういう風に母から聞いています。」
「間違っていないなそれは。あいつが一番音楽と向き合っていたし、あいつは音楽と君のお母さんしかないような男だったからな。でも、君ができてあいつは変わった。変わったというよりも自らで変えたのかもしれない。君のお母さんと君を守るからっていう理由で、結局俺らのバンドは解散することになった。それは皆が納得したことだったし、俺もそうだしあいつも悔いはないのだろうと思っていた。でも、それは間違っていたのかしれない。あいつは世間一般でいう、普通の真っ当な父親になろうと努力したのは間違いないけれども、それがあいつ自身を苦しめたのは事実だよ。音楽しかやってこなかった人間がそれを捨てて、いきなりスーツにネクタイ締めて会社員をやろうとすれば、身体や精神に少なからず負荷がかかる。それをもろに受けてしまっていたのがあいつだ。でも一つ言えることがある。あいつが死んだのは君や君のお母さんのせいじゃない。間違いなく言えることは、俺らがあいつをちゃんと見ていなかった。あいつのことを良く知っていると過信していた。だから、俺らは解散するべきじゃなかった。プロを目指そうが、遊びでやろうが、バンドを解散させたことがあいつの心の余裕を奪い、あのような結果になってしまった。だから、君や君のお母さん、そして、あいつには悪いことをしたと思っている。いつかこのことを話さなければならないと思っていた。トオル。本当に申し訳ない。」

岩鬼が深々と頭を下げ謝っている。彼のその姿を見ていると、この一連の話が演出ではないような気がした。元々、僕たちで話していたのは、喫茶店で音楽についての話をするということだったはずだ。でも岩鬼はそれをしなかった。僕は思った。岩鬼は彼を知っていた。彼に対して罪悪感をずっと持っていたけれども、自分がメインキャストで演出することは避けたかった。でも僕らが、岩鬼が適任であるとしてお願いしたため、岩鬼も逃げることを辞めずっと心に宿してきたことを話したのだろう。

「岩鬼さん、怖かったのかもね。たぶん、私たちに頼む前に、岩鬼さん自身で演出することもできたはずだった。でも、それをすることができなくて、私たちに委ねた。でも結果的に、私たちは岩鬼さんにお願いした。岩鬼さんが現実から目を背けたかったのは事実。でも、岩鬼さんは最終的にトオル君に話そうと決意し、それを実行した。この世界の人たちは皆、現実世界から逃げるために来ている人が多い。上層部がそういう人を多く勧誘しているのも事実よ。岩鬼さんもこの世界に何年いるかは詳しくわからないけど、逃避したくてここに来たと言っても過言ではない。君はさ、最初逃げることは良くないって言ってたよね。それもよくわかる。でも、ある時では逃げることも大事。逃げることができなくて、自ら命を絶つ人も多いのよ。だから、私は思うの。岩鬼さんは次のステップに進もうとしているんじゃないかな。逃げて逃げて逃げた先に新たな道はない。でもね、その場所に来たからこそ、また見えてくるものがあると思うの。」

岩鬼はトオルの言葉を聞く前に演出を終了させた。あの時僕たちが見たトオルや岩鬼の表情はたとえ現実世界に戻ったとしても忘れずに心に残っているような気がした。

長谷川さんの案件が無事終わり、次の案件のお客様について調べるために会議室303に入った。今回のお客様の顔写真を見た瞬間、周りが暗闇と化した。そして憎悪の感情が激しく芽生えた。しかし冷静になってみるとどんどん暗闇は消え失せていく。それどころか今この瞬間しかない、このチャンスを逃すまいと思った。私は岩鬼を探すために走り回った。*待ち合わせ時刻から30分が経とうとしていたのだが、誰も来る気配がない。キャストは僕とエミコと岩鬼のはずだ。二人で行ってしまったのだろうか。

「遅くなってすまん。」
「岩鬼さん、遅いですよ。」
「緊急事態が発生してな。エミコが脱退した。」
「現実に戻ったんですね。」
「なんだ、嬉しそうじゃないか。」
「そりゃそうですよ。」
「あいつはこれからが大変だ。」
「どういうことですか。」
「お前聞いていなかったのか。」
「現実でのことですか。詳しくは聞いていないです。」
「仲が良いから知っているのかと思ったよ。あいつはな、生死の狭間にいたんだよ。それで俺があいつをこの世界にスカウトした。」
「病気とかですか。」
「いや、監禁だよ。ある男に家族を殺され、あいつはまだ生きているが、そのうち殺されるだろう。」
「じゃあ戻っても待っているのは死じゃないですか。」
「いや、ビッグチャンスが来たんだ。」
「どういうことですか。」
「犯人がこの世界にくるんだよ。お客様として。」

僕は現実世界にいた。夢空間で起こった出来事については完全に記憶が抹消されている。それでも引き続き夢は見るそうだ。なぜなら組織に入ってやめたわけではないから。つまり組織に関する記憶だけが抹消されたのだ。もちろん岩鬼やエミコのことも覚えていない。カーテンを開けると気持ちの良い日光が僕を出迎えてくれた。起き上がってリモコンを探しテレビをつけた。どのチャンネルもある家族の殺人事件に関するニュースを特集していた。

目の間に広がる懐かしい海辺。いつの日かここに来たことがあるような気がしたが思い出せない。すると中年の男がこっちに向かって走ってきた。

「元気か?」この馴れ馴れしい男は誰だろうか。

夢の記憶は基本的に曖昧だ。細かいディテールまで覚えている夢もあるがそれはごくわずかだ。今回の夢に関しても詳細に覚えているわけではない。でも僕はあの海に関しては何か大事なものがあるのではないかと直感的に感じていた。その海を目指していまレンタカーを走らせている。ラジオを流すとニールヤングのハートオブゴールドが流れ始めた。激しさは微塵もないが、心を落ち着かせる名曲だ。あの景色の海はどこにあるのだろうか。時間が許す限り日本中を探しまわった。

僕はある場所にたどり着いた。ここだ。僕は砂浜に座った。あの馴れ馴れしい男が言っていたようにこの場所にやってきた。何かを期待したが五時間待っても何も起こらず、誰一人として現れなかった。夢のお告げを信じた自分が馬鹿だったと猛烈に反省した。

その日は朝から何も口にしておらず、空腹を満たすために海の近くにある街の喫茶店に立ち寄った。昔からある純喫茶のようだ。食事が来るまで時間があったので、マンガを読もうと雑誌があるラックを物色していたところ、ある写真集を見つけた。一冊目のタイトルは『花の名』。二冊目のタイトルは『虹住人の抜け殻』。二冊とも同じ写真家が撮ったものだった。

『虹住人の抜け殻』の最後のページに文章が書いてある。

失った事実は変えられない。
ましてやこの世界で「command+Z」を使えるわけでもない。
だから私たちの心は逃避する。
いま、目の前の現実から目を背けてしまう。
果たしてそれは悪いことなのだろうか。
私たちはわかっている。
逃避した先の道が行き止まりであることを。
だからあの場所に戻ってくるのだ。
日々を過ごす私たちは一人前の孤独を抱えて
余白ができた心に一色ずつ色を重ねて彩っていくのである。
それを私は「生きる」と呼ぶ。


--end--

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?