Hiromi Karahashi@JPortbySPeakCorp代表 (自己紹介 ① 幼少期〜大学卒業・帰国)
はじめまして、SPeakというグローバル新卒xTechスタートアップの代表をしている唐橋宗三(Hiromi Karahashi)です。
名前からすると女性?って思われることもおおいのですが、
小学校の時のあだ名は「おやじ」。中学校・高校は「リーダー」。大学では「ヒロミ」。男です。
■ふつうの自己紹介
2019年4月に長年の思いであった「日本をグローバルにしたい」という思いをビジネスとして実現するために株式会社SPeakを創業。2001年米国同時多発テロの1カ月前に、日本の伝統的な進学高校を中退し、米国に単身留学。その後、8年間をバーモント州・ニューヨーク中心部にて過ごし、世界中の優秀な若者と切磋琢磨。外国人として過ごした海外生活、日英バイリンガル最大級ジョブフェア・ボストンキャリアフォーラムの運営経験、その後の日系グローバル企業・社会人学生生活の中で企業側・多くの学生側の課題や現状や可能性を感じ、(株)SPeak立ち上げに至る。2019年 株式会社SPeak 創業 – 2017年 株式会社サーティーフォー人材マッチング事業部 – 2016年 株式会社リンカーズ(営業インターン) – 2015-2017年 慶應義塾大学大学院経営管理研究科慶應ビジネススクール MBA修士課程修了 – 2009-2015年 ダイキン工業株式会社 (6年営業戦略・営業) – 2008年ニューヨーク市立大学法科心理学部卒業 – 2007年ディスコインターナショナル (Boston Career Forum運営インターン) – 2001-2004年 セントジョンズバリーアカデミー(米国現地高校)卒業 – 2000年 日本の伝統的進学校を自主退学 – 1984年生まれ。国際結婚で三児の父。
■↑ではおもしろくないので、↓はもっと赤裸々に。
長くなりすぎたので、この記事「とりあえず自己紹介から①」では、幼少期〜大学卒業までを赤裸々に書きます。
1. 幼少期〜高校中退
幼少期から小学校までは勉強もできていて明るい性格でしたが(学級委員とか立候補してやるタイプ)、壮絶な中学時代を過ごす。人生で初めて大事な人が傷つき、その人たちを失ったことで「死」がとても身近になり、人生の壁にぶつかり、自分のまわりが白黒に見えていた。学校でも、どんどん白黒な生活は拍車をかけていき、人生の下降線を3年間降っていった。ずっとやっていたサッカーも、中学時代のポジションは「レフトベンチ」、成績は見る見るうちに下から数えた方が早いぐらいに、この頃から勉強もまったくしなくなった。もう興味が全くなくなった。学校をさぼっては、鎌倉行ったり。ひとりでゲーセン行ってサッカーゲームやって。ひとり不良ごっこみたいな感じ。
そんな感じで、エスカレート式で高校に入学したら、また一気に下降線をたどっていった。逃げ場が欲しかったのか。伝統的な雰囲気に嫌気がさしたのか。正直いまでも全然わからないのですが、高校入学1ヶ月で先生とささいなことで口論になり「辞めてやる」といった衝動的な感じで高校中退。
下降線をたどっていった中学ー高校1年(1学期まで)の間で、学校以外の場所でもいろいろあって、「いきなりアメリカに行って行動力がありますね」とか言われたりするのですが、本当にそんなかっこいいものでもなく。
どうする?このままじゃうだつがあがんないよ。何か劇的に変えないと。環境変えないと。青かったし、弱かった。
成績が下降線にあった中学高校の中でも、なぜか英語は昔から好きだったし、できた(全国100番以内)。
「アメリカに行かせてください」、そうお願いし、両親は実現してくれた。
2. 単身渡米しアメリカ現地高校へ: 「白黒」だった世界がダイバーシティな環境で『Colorful』に
2001年1月からまずは、兄が調べてくれたオクラホマ州の小さな田舎町Tahlequahにある現地高校で小学生〜高校生まで合わせて全校生徒80名ぐらいの学校に行きました。そこは算数のクラス中にハンバーガー食べながら筋トレするような学校だったので、半年でもっとしっかりとしたVermont州St.Johnsbury Academy という高校に転入することになりました。
2001年8月26日、夏休みで帰国して、新しい高校にいくために成田空港からシカゴオヘア国際空港での乗り継ぎのターミナルから、本当の青春・新しくColorfulな人生が始まりました。
シカゴの乗り継ぎターミナルで見たあの子との出会い
この話は、自己紹介じゃなくて、あとでまとめて書こうかなとおもいましたが「赤裸々な自己紹介」なので、書かずにはいられず。ちょっとだけ、書きます。またいつかこの続編は暇があるときに書きます。
2001年8月26日、シカゴ中に衝撃が走った。(と感じた)
2001年8月26日、前述のオクラホマ州の高校から転入するために、成田空港からユナイテッド航空成田発-シカゴO'hare空港経由-Vermont州Burlington空港を目指しました。ひとりでこんな長時間の飛行機移動するの初めてだったので、最高に気分は舞い上がっていて一睡も飛行機でできなかった。1人で旅することがこんなに気分があがるなんて知らなかった。
そんな調子で、シカゴO'hare空港に着き、アメリカ国内便ターミナルでマクドナルドを1人で食べていたときに、この空港に衝撃が走った。少なくともぼくの半径100メートルは、彼女以外何も見えなくなった。
例えるなら「初恋のきた道」で有名になったチャン・ツィイー。なんか隣にでかい男が一緒にいたけど、彼女に視線が釘付けに。
(まあ、とりあえずピザ食べて飛行機のろう)
そしてVermont州Burlington空港行きの国内線(ユナイテッド航空)に乗ると、また衝撃が走った。
(チャン・ツィイー似のあの子も同じ飛行機じゃん)
幸運だ。アメリカっていい国だな。この国は意外と俺の性に合うのかもしれない。そんな風に感じた、2001年8月26日アメリカ本格渡米初日の出来事でした。この出会いについては、↓続編で書いています。
赤裸々な自己紹介続けます、
バーモント州の現地高校に入ると、日本で全国100位以内に入っていた英語も全く使い物にならず、まずはESL(English as a Second Language)のクラスをメインに取り、この時点で日本の同級生と比べて、2年のギャップができることが確定。でもそんなこと全く気にならないぐらい、高校生活を思い切り楽しんでました。寮生活だったので、エジプト人のTaha・メキシコ人のInigoとルームメイトになり、いきなり異文化のアホさを体感。InigoとTahaはまあ僕と同い年だったんですが、色気付くのが早くて、香水とかめっちゃつけるんです。臭い臭い。夜になると、くだらないことから口論が始まり、最後は馬鹿みたいに枕で殴り合い、最後はゲラゲラ笑って寝る。そんな生活が心地よかった。なぜかアメリカでは、サッカー部では自分が一番うまくなってしまって、ここからアメリカ人やイタリア人やドイツ人や韓国人のチームメイトからリスペクトもされ、友達の輪も広がっていった(日本ではレフトベンチだったのに)。
現地高校は意外と成績をしっかり取らないと単位も取れないので、日本にいた時よりは勉強し始めた時期。それでも勉強よりも、サッカー・遊びの比重の方が大きかったですが。(正直、遅刻したりしてDetentionくらってましたが。Detentionとは… 放課後に勉強部屋に他の不真面目アメリカ人や学生と一緒に勉強したふりをするような感じの「罰」です)
高校3年生になると、進学を決める時期に。キャリア相談のMrs. Crosbyに自分の学力でいける大学をいくつかリストアップしてもらった。たしか、University of Tampa (フロリダ州) / Unviersity of New Haven(コネチカット州)を彼女はおすすめしてくれた。
だけど、正直にもう田舎には飽きていたし、もっと都会に、NYCに行きたかった。その理由は、当時付き合っていた彼女がニューヨーク州郊外の大学にぼくよりも1年早く卒業して、進学していたからです。(はい、動機は不純です)。それに単純にニューヨーク、かっこよくないですか。(あとは公立大学だったので学費も私立よりは安かったので)
冬の、朝方のニューヨークの街並みのマンホールから煙が立ち上がる感じ。
ただ、勉強することは決めていた「犯罪心理学」(Forensic Psychology)。これ以外の専攻は一切考えなかった。利己的にComputer ScienceとかFinanceとか専攻する友達が多かったけど、全く興味なし。
当時、海外ドラマ「CSI」に憧れていて、犯罪者の心理のメカニズムがわかれば面白そうだなと単純に興味を引かれたから。まわりにはFBIになるから!とか適当なこと言ってましたが、高校で心理学入門編(101)の授業をとったときに、Sigmund Freudとかのぶっ飛んだ理論とかが純粋に面白かっただけです。(もしかしたら生い立ちにも関係があるかもしれません)
あとは、New York City内に、犯罪心理学では全米No.1の大学があったから。
それが City University of New York : John Jay College of Criminal Justice。
3. 大学進学〜卒業:大都会ニューヨークに住む
2004年、アメリカのど田舎の高校からニューヨーク・マンハッタンの中にあるニューヨーク市立大学ジョン・ジェイ校に入学。観光でいった方はわかるかもしれませんが、セントラルパークの近くにある Columbus Circle という地域から徒歩3分(59 st & 10 ave) 。大学に入ってみてわかったのですが、この大学の大半は、黒人・ラテン系移民の学生ばかり。英語も、ラッパー的な英語に変わっていった笑。一応、犯罪心理学では米国No.1の大学です。卒業生は、弁護士・NYPD・FBI・CIAになったりする大学です。(ただ休み時間の間にここでは書けない様なことやってるやつもいる、結構ワイルドな大学でしたね)
大学は本当に勉強しないと単位絶対に取れないので、授業・授業後のWriting Tutorに行ってWriting Skillの向上・サッカー部・ボランティア・インターンシップ・レストラン手伝いに明け暮れ、何かしていないと落ち着かない刺激的な毎日を過ごせました!いや本当に楽しかった。
大学サッカー部では、2006-2007年 CUNY All-starチームに選ばれ、2008年シーズンは主将として、10か国以上(🇺🇸、🇨🇴、🇪🇨、🇵🇪、🇲🇽、🇧🇷、🇮🇹、🇹🇹、🇯🇲、🇬🇪、🇦🇱、🇲🇪、🇯🇵)の多国籍チームを唯一のアジア人として引っ張りました。本当にわがままな奴多いし、主張しまくるし、デリカシーもない奴らだったけど良いチームでした。勝てるチームにすることを目的に、カジュアルに、規律をどう植えつけるかってことばかりを考えてましたね。とにかくぶつかること・話し込むこと・生活まで理解すること。監督がギリシャ人ですごく信頼しあえていい関係でした。2006年地区大会準決勝で人生初の決勝Vゴールをペナルティエリア手前22mぐらいのFKで決めたときは、おもちゃみたいにチームメイトにもみくちゃにされて、ゴール後10分間の記憶が今でもない。(あくの強い連中でしたが、チームメイトの大半は自分で学費支払っていた。みんな移民系なのでハングリーだったなあ)
Forensic Psychology(犯罪心理学)の勉強は本当に面白かった。放火犯にも4種類あるとか、虐待の傷にもいくつかの種類があるとか、Criminal psychology, Social behavior, Abnormal behavior, Cognitive psychology, Perception, Drugs and psychopharmacology, Law, Criminal justiceなどなど。あらゆる「ふつうじゃない」人の心理を毎日分析したり、実験したり、理論を読んだり、囚人の話を聞いたり。言葉ではちょっと言い表せられないのですが、犯罪心理学の学習から、「分析力」「動じない気持ち」「誰しも何者にもなってしまうし、なれる可能性」があることを学べました。しかし、大学1年後半で衝撃の事実が発覚。
「アメリカ人でないと、FBIにはなれない!」(調べとけ!って感じですね)
「犯罪心理学のプロになるには、Ph.Dは必須!」(これも調べとけ!)
Forensic Psychologyの勉強は楽しくて今でもいろいろ覚えてるのですが、元来、自分は行動派。もう4年以上とか学校にいく気は毛頭なかったし、その当時、就活を早めにやろうと思って、トヨタ生産方式の本や日本のものづくりや🇯🇵の企業のグローバル展開(Komatsuのコムトラックとか)とかにすごく興味があって、ニューヨークのBryantPark近くにあったBook-Offで読みあさっていたんです。
こうした日本のグローバル企業はどうやってグローバル展開を今後加速していくんだろう?
だったらどういう風にそういった人材を獲得しているのだろう?
そんなことを次第に考えるようになってました。
調べて行ったらボスキャリなるものが存在することを発見。たまたま、そのボスキャリの運営会社Disco Internationalがニューヨーク・マンハッタンにあることをネットで発見。前述の通り、行動派なので、すぐメール。そこでボスキャリ運営のお手伝いを無給インターンとしてやらせてもらいました。働き始めて知ったのは、ボスキャリが実は、日英バイリンガル向けジョブフェアで唯一とも言える最高峰の会社と最高峰のタレントが出会うあの「ボストンキャリアフォーラム」だったということ。
就活もボスキャリで完了。いやあボスキャリのあの感じは、学生が勘違いしてしまいそうなぐらいの感じです、本当に。ボストンで飯連れていってもらい、🇯🇵に帰ってきたら会社見学・焼肉みたいな。すごかったです、本当に。
だけど海外で就活した経験からすると、日英バイリンガルにとっては、あそこしかないぐらいの存在感がある場所でした。人材業界のことも勉強させていただいて良いインターンでした。
こうしてアメリカでの8年間は濃く、インスピレーションに溢れる毎日を過ごせました。
■8年間の海外単身生活が人格形成に与えた影響
アメリカで長く生活をしていると、アメリカ人の懐の深さやフランクさに慣れていき、自分自身も一皮も二皮も向けて、とてもカジュアルな性格に変わっていきました。最後の方は色も焼けてたので、ヒスパニック系のおばちゃんにふつうにスペイン語で道聞かれたりするぐらいになりました笑。
ただ、たまに友達の友達の日本人とかが遊び場にいて「アメリカ最高、日本はいやだ」みたいな雰囲気出してるのみると、心中「イラっ」としてる自分がいました。もちろん、僕自身も全然日本人らしい奥ゆかしさとかあんまり持ち合わせてないですし、ストレートに物事を言うとか、誰でもボーダーレスにつきあう国際感覚は身についたんですが、心の底では日本代表。そんな意識が芽生えていきました。(イチローが活躍するたびに、内心、ドヤ顔みたいな感じ)
よく言う話ですが、外にでると日本の良さがわかるみたいな、そんな感覚を覚えるようになりました。ハンバーガーもホットドッグも🍕も好きだけど、やっぱり醤油味の味付けとか、とんかつとか好きですもん。みたいな感覚笑。
■8年間の海外単身生活で見えた人生のミッション
日本に帰ってくると、日本の素晴らしさや日本人の良い所がわかるようになってきました。日本にいたときはなかった母国への誇りや想いとアメリカだけでなく、外国人の持つ良さを融合する世界をつくりたい。そう思うようになっていきました。
日本にも、ニューヨークのようなMelting Pot(人種のるつぼ)になれる可能性が本当にある。意外と、ニューヨークは国同士のコミュニティが分断されていたりもするので。
たぶん日本版Melting Potはニューヨークとは違う形になると思うけど。
Borderless Japan
日本は安全だし、アジア諸国に文化的にも距離的にも近い。世界で活躍しているまたは利用されている業界の幅も広いし、産業の裾野や幅が広いし、人は純粋に良い人が多いし、犯罪も少ない。
ただ、外国ということや文化に対して触れる機会が少ないから悪気のない無知(無知だからといって許されるわけでもないのですが)が存在したり、英語や外国語に対する壁が他の国の英語話せない人に比べて高いだけ。なんていうのかな、欧米諸国に比べて「ネガティブな差別」は圧倒的に少ない。「ポジティブな差別」が良いわけではないですし、受け手はやはり嫌なもので。
もちろん課題もあるけど、日本流のMeltingPotが必ずできるな。
可能性ある。
ただ、どうしたらそういう世の中ができるかな。
2009年2月、🇯🇵へ帰国する飛行機の中で、
こんなことを考えていたのを今でも覚えています。
そして、8年ぶりに日本で暮らすことにわくわくして、成田空港に降り立ちました。