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P14_もう一度、 "映像で脚本を書きなおす" 丨 『東京彗星』オンラインパンフレット_映画制作とは⑤ 仮編集

映画制作がどうやって進むのかを書くシリーズです。


①プリ・プロダクション
②ロケハン、オーディション、リハーサル
③撮影(のときに考えてること)
④具体的な撮影記録

につづき、今日は "地獄の"仮編集です。


仮編集とは

仮編集というのは、カラーグレーディング(色調調整)やCG、合成などをほどこす前の撮影したままの映像素材を編集して、まず映像の流れをつくる編集のことをいいます。これはCMも一緒です。

大変な手間がかかるCGや合成をつくりこんでから、「やっぱこのシーンいらなーい」とかやると、大変です。なのでまず、「この流れでいく!」という全体の編集を決め、各映像を使用する尺(時間)を確定します。いろいろ磨きたい要素はひとまずおいといてつなぐ仮編集、完成度の差を見た目であらわすと、たとえばこんな感じ。

仮編集の画面(僕が簡単につくったもの)

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完成画面(flapper3にCGでつくりなおしてもらったもの)

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僕は14歳、15歳でつくった映画は学校のHi-8テープ編集機でやってましたが、16歳で映画部をつくってからはずっと、Adobe Premiereにお世話になってます。

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仮編集は"終わらない"


で、これの何が地獄かっていうと、終わらないんです。終わらせないと、もしくは締め切りが来ないと、終われない。正解がないからです。1発通してつなぐのは見返すたびに、なおしたいところが出てくる。自分では完璧!と思っても、人に見せるといろいろ改善点が見えてくる。修正する。今度はもとの良さが失われる。修正する。この繰り返しです。


仮編集の落とし穴


しかも、繰り返しシーンを観てくると、脳が慣れてきます。初見のお客さんには理解したり考えたりするのに大事な "間"も、何度も観て慣れてくると退屈に感じたりします。仮編集を何度もがんばればがんばるほど、 "初見のお客さんの気持ち"からどんどん離れていくのです。

しかも、シーン単位で編集してうまくいっても、全体で観なおすとそのシーンが浮いてしまう、ってのも起こります。お客さんは "初見、イッキ見"です。初見、イッキ見で観てちゃんと理解できて、おもしろい。これが理想です。この "ベースの状態のズレ"には常に気をつけないと、ひとりよがりな編集になってしまいます。


仮編集は “第二の脚本作業”である

人間の認知バイアスのひとつに、クレショフ効果というのがあります。

ある映像群がほかの映像群に対して、相対的に意味をもつ。観客にとって、映像がばらばらに単独で存在するわけではなく、つながりのなかで無意識に意味を解釈してしまう(Wikiより)。

ざっくりいうと。

屋上から下を観て号泣する女優のヨリ

地面の友人の死体 



とつなぐと、女優の演技の意味は
「友人が死んで超悲しい」になります


屋上から下を観て号泣する女優のヨリ

地上で"Will you marry me?"のプラカードかかげる彼氏



とつなぐと、女優の演技の意味は
「プロポーズされて超嬉しい」になります。

女優の演技は同じでも、連続性によって意味をコントロールできてしまうのです。間違ってたら誰か突っ込んでください。


つまり、シーンやショットの順番を入れ替えるだけで、伝わる意味が変わってしまいます。いかようにもできるのです。どんなに素晴らしい撮影素材があったとしても、ちょろっと順番を入れ替えるだけで、さらに素晴らしいシーンにも、全然意味わかんないシーンにもなりえます。 "観客への情報提供の順番と密度、ペースの整理"で考えると仮編集は、脚本で文字ベースでやっていた試行錯誤を今度は映像そのものを使ってやる、 "第二の脚本作業"とも言えます。これも師匠の受け売りの考え方ですが。

地獄のはじまり


『東京彗星』は本編25分の短編映画ですが、最初につないだときは36分ありました。本作の制作費を出資してくれたMOON CINEMA PROJECTの規定は25分以内だったので、これはやばい。まぁもともと脚本の段階で、ふつうにつないだら45分くらいかかる量ではあったのですが。僕はかったるい邦画が嫌いなのでザクザクハイテンポでつないだらなんとかなるだろうと思ってたのですが、やはり思い入れのある素材…切るに切れないシーンが多く、最初はそんな感じで尺オーバーしてしまいました。

にもかかわらず。

自分が思い描いていた映画がひとまず脳の外、現実にあらわれたわけです、それはそれは嬉しい。映画史上最高傑作ができたと思います。最初は。意外とはやくできちゃったなーなんて思って、プロデューサーとカメラマンに観てもらいました。僕はもう拍手されるもんだとおもって。「洞内くん、アカデミー賞狙えるよ!」なんて言われることを期待して。

しかしどうでしょう、初めて観せたあとのふたりの顔は忘れられません。

きょとん…。

全然ピンと来てない。
強がって、僕は言いました。

「この映画はこれ以上はよくならないってとこまでやりましたよ」

いま思えば、アホ極まりない。
実際、2017年のゴールデンウィーク前後の10日間以上、起きてから寝るまですべて捧げて血反吐はきながら(はいてませんが)完成させた仮編集です。その言葉は半分本当でした。しかし返ってきた言葉は「いやいやいやいや!もっと良くなるよ絶対!」…いま思えば「全然ダメだね」より傷の浅い言い方です。優しい2人に感謝です。

「え、そうなの?もっとよくなるの?じゃあ、やってみようかな」ということで、その日から脚本でいうところのリライト…再編集が始まりました。

ここからが、地獄です。

自分の初手が完璧ではないと理解、納得してからの作業はつまり、 "これでは完璧ではない"と痛感しつづける無限地獄なのです。

納得しないまま放り出せば、楽にはなれます。しかし作品はお客さんには届きません。つらくても、やるしかないです。やりだしたのは、自分ですから。そうして2017年の5月は、まるまる仮編集に捧げることとなりました。

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即席編集室、その名はコート・ダジュール


通常のクライアント仕事の仮編集では、そのための予算があります。そのお金で編集スタジオを借りて、エディターさんと一緒に専用のコンピューターで編集します。編集スタジオを借りた時間のなかで、完成までもっていきます。

しかし今回は自主映画です。制作費は撮影で使い果たしています。仮編集スタジオは借りられません。まぁ基本、家で作業していたのですが、この再編集のフェーズでは、僕ひとりの脳みそでやらない方がいいと判断し、監督としての師匠・大岡俊彦と、スーパーエディター、小林文朋さんの知恵を借りることにしました。

とはいえ、家に呼ぶわけにもいかず。そこで苦肉の策として "臨時編集室"に選んだのは、カラオケボックスの大部屋でした。

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大画面のテレビがあり、大きな音も出しておっけー。注文すれば食べ物飲み物が届き、タバコも吸える。銀座コート・ダジュールのVIPルームは、我々の即席編集スタジオとなりました。まるまる2日、トータル16時間くらい。それぞれ大岡師匠と小林先生を呼び出し、試行錯誤、ディスカッションしながら再編集を進めました。

大きくなおし、小さく整える


ひとまず36分を25分に縮めなければいけません。ちまちま切れるセリフやショットを落としていた僕に師匠が言ったのは「もっと大きくやれ」ということでした。シーン単位で、バッサリいくということ。チマチマ切っていくと、せっかく保たれていたそのシーン単体のバランスがどんどん崩れていきます。そしたら映画全体がちぐはぐで乱れたペースのもとになってしまう。

シーン単位でまるごと落としたり、大胆に半分にしたりしてざっくりと10分削り、26分くらいにしてから、数秒を稼ぐための細かい調整をしていく。ここで、文字である脚本ではできない技が出てきます。脚本では時間をとることになっていた、長々と心情を語るセリフなんかが、役者の表情1発で伝わるようなことが、映像にはあります。そんなときは、セリフは切ってしまいます。それだけでセリフ言っていたぶんの時間は削れます。

観客は、脚本を読むのではありません。完成した映像を観るだけです。

映像で伝わっていれば、脚本上では必要だとおもっていたシーンでも、まるごと落としても無傷なんてことが、多々あります。残念ながらこれは脚本執筆中にわからないことが多いです。いや、たぶん優れた脚本家や監督はできます。僕は今回いろいろ誤差がありました。その役を演じる役者の技量や、音楽、前後のシーンの出来によるからです。 "初見でイッキ見の観客がどの程度理解して、どの程度のめりこんで、どの程度グッときてくれるのか"これを慎重に計算しながら、いるシーン、いらないシーン、そしてその順番や長さを整えていきます。
そうして『東京彗星』の仮編集はver6.5までいきました。スタッフに送って感想をもらうために
毎晩大容量ファイルをアップロードしていたので、マンションのインターネットの低速化を招き、注意の手紙が来ました。その節は、すんません。


走りながら上達する


完成した映画を何度も観て、思うことがあります。それは、最初のシーンより最後のシーンの方が、自分が編集がうまくなっているということです。

全時間をかけて集中的に取り組んでいたおかげで、最後のシーンを編集する頃には、最初のシーンを編集していた頃より成長してしまったのです。少年ジャンプか。桜木花道か。

もしかしたらいろんなことに通じると思うのですが、ガチで責任が発生する、逃げ場のない "試合"がいちばん成長できる機会なのかもしれません。もちろん、試合を想定して練習を積み重ねることは前提ですが。矢面に立ち、絞り出す。「これは練習だから」と手を抜いたなにかの繰り返しでは、自分の能力は拡張していきません。たぶん。自分より強え奴と戦って、死にかけて強くなるサイヤ人です。また少年ジャンプだ。

そしてこれこそが、もうひとつの地獄の入り口です。

再編集するたびに、成長するわけです。また最初のシーンを観ます。自分が成長してるので、欠点がわかります。なおしたくなります。また編集します。最後までいきます。また成長してるのです。またなおしたくなります。以下、無限ループ。終われない地獄とは、このことです。

しかし、現実には締切と納品がやってきます。作品は完成させなければいけません。成長した自分が完成した作品を観て浮かぶ「もっとこうすれば…!」という想いは、次回作へ引き継がれます。

以前の記事
でも書きましたが、僕は作家が「いままで100%満足したことはない」と言っちゃうのは、嫌いです。お客さんからしたら「100%ができてからもってこい」です。でも作家はみんなきっと、ほんとはそうおもってるのではないでしょうか。「これで完璧!」とおもって出すけど、出した自分は成長しているから、「もっとこうできる」と思ってしまう。それをさして、「100%満足したことはない」という気持ちもわかります。だから僕はこう言います。

『東京彗星』は、当時やれるだけのことはやりきったので、100%満足している。ただ…

次はもっと、うまくやれる。


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また映画つくりたいですなぁ。夢の途中です。