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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その四 おみねの一件始末 4

 外に出て、冷たい空気を何度も吸い込んだ。

 昂ぶっていた心が徐々に冷やされ、熱くなっていた部分も急速におさまった。

 全くと、ため息を吐いた。

 新兵衛は、当分出てこないだろう。

 ただ待っているのも馬鹿らしい。ちょうどいい、それまでの間、例の長屋にでも行って見るかと足を向けた。

 相変わらずの酷いところである。

 北風が吹きつけると、いまにも倒れてしまいそうだ。

 田舎でさえ師走で賑わっているのに、ここだけは、まるで捨てられた村のようにひっそりとしていた。

 惣太郎は、泥濘を避けながら、あの男がいた部屋へと向かった。

 確か、ここだったと、虫に食われた板戸を叩くが、誰もいないようだ。

 代わりに、戸板から木屑がぼろぼろと零れ落ちた。お陰で、ちょうど隙間ができた。そこから中を覗いてみた。

 男の姿はない。

 というか、生活している様子も伺われない。

 もしや逃げたか。

 それとも……と考えているところに、

「あんた、何のようだ」

 と、背中で声がした。

 振り返ると、自分がおみねの亭主だと名乗った男が立っていた。

 野良犬が、縄張りに踏み込んできた獲物の様子を伺うような目で、こちらを睨みつけている。

「また、おみねのことを調べてるやつがいると聞いたから、もしやあんたじゃねぇかと思っていたが、やっぱりな。あんたも、しつけなぁ、今更おみねのことを調べても何にも出ねえよ。それよりも早いとこ、こっちに戻ってくるようにおみねを説き伏せてくんねぇかな。もう何ヶ月も、おみねを待ちわびてるんだよ。縁切寺のお役人なら、こんな町方みたいな真似事しねぇで、自分のお役に精を出してもらいたいもんだぜ」

「それは悪かったですね。ですが、おみねの一件に関しては、少々不審なところがあるゆえ、このように調べています」

「ほう、そいつはなんだい」

「それは言えません」

「じゃあ、力づくでも聞くか」

 男は、背中に手をやると、そのまますっと何かを抜き取り、惣太郎に翳した。

 十手だ!

 ということは、この男、北町の大澤から、政吉に代わって十手を受けたという子分か。

 おみねの亭主が十手持ち ―― これは、おはま同様、ややこしいことになりそうだ。

「これでも俺は、この辺の顔でね。大澤の旦那からも、不審者が出たら取り締まれって言われてんだよ」

「拙者は、不審者ではありません」

「不審者ってことで、幾らでも処理できんだよ」

 睨みあったまま、惣太郎は動かなかった。

 いや、動けなかった。

 一瞬でも隙を見せれば、やられる!

 息をするもの慎重だ。

 だが、それは向こうも同じだろう。

 惣太郎は、しばらく男と対峙したままであったが、やがて相手のほうから十手を引いた。

「まあ、これ以上深入りはしなさんなってことだ。大人しく寺に戻って、おみねを説得してくださいよ、お役人さん」

 憎たらしい笑みを零して、自称おみねの亭主は去っていった。

 ふっと息を吐くと、全身の力が抜けて、その場にへたり込みそうになった。

 なんとか身体を支え、長屋を出た。

 加賀屋に戻り、新兵衛はもう帰ったかと尋ねると、

「お客様なら、まだお楽しみ中です」

 と、答えが返ってきた。

 仕方なく、近くの茶屋で待つことにした。

 緊張で、咽喉がからからに渇いていたので、お茶で潤し、安堵から急に腹が減ったので、団子を頼んだ。

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