【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 後編 9
数日後、稲女(いねめ)と三成(みつなり)の墓の前に佇む弟成の姿があった。
彼は貫頭衣を脱ぎ捨て、寺から支給された衣と袴を身に着けていた。
墓の前に腰を下した。
墓といっても、墓標も墓標代わりの石や木もない ―― ただ、土が僅かに盛り上がっているだけである。
その盛り土をゆっくり撫で回す。
「稲女、三成、もうここには戻って来れへんかもしれへん。そやから、少しだけ土を持って行くわ」
一握りの土を取ると、布に包んで懐の中に仕舞い込んだ。
彼は、後ろの気配に気が付いた。
寺司の聞師である。
だが、振り向きもしなかった。
「弟成、これがお前の言った奴の道か?」
弟成は、聞師の言葉に答えない。
「なぜ、そこまで意固地になるのだ?」
「意固地? 意固地になんかなっていませんよ。言ったはずです、私は奴だ、と。私の目の前には、奴の道しかないのですよ。もう……、放って置いてください」
「私は、お前が心配でならんのだ。お前が、道を踏み外しはしないかと」
振り返り、聞師の顔を見た。
「私が道を踏み外す? そんな訳ないじゃないですか。奴の道なんて一本切りですよ。黙って、主人の言うことを聞いていれば良いのです。主人が死ねといえば、死ねば良いのです。ただ、それだけです。何処に、道を踏み外すような余地があるのですか?」
「違うな。道があるのではない、道は作るものだ。お前はいま、獣道さえない山奥を歩いている。そして迷っている。いつ谷底に落ちるとも限らんの。いや、既に谷底に落ちているのかもしれん。それに気付いていないだけかもしれん。違うか?」
弟成は、黙ってその場を立ち去ろうとした。
「弟成!」
足を止める。
「聞師様、あなたにこんなお願いをするのは身分違いでしょうが、稲女と三成の墓を宜しくお願いします。それから、塔のあの像にも、お経の一つでも上げてやってください」
「弟成……」
「あなたに会えたのは、兄の導きかもしれませんね……、では」
弟成は、足早にその場を離れた。
聞師は、黙ってそれを見送るしかなかった。
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