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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 後編 16

 弟成が船に慣れてきたのはここ最近の話で、それでも日を置いて乗り込むと、始めの数時間は胸焼けが続いた。

 黒万呂はどうかといえば、口では気持ち悪いとは言うものの、常に倒れた弟成の介抱をしたり、代わりに仕事を片付けたりと、随分と世話になったものである。

「そう言えば、倒れた時はいつも黒万呂が介抱してくれたやん」

「そうやっけ? 覚えとらんな」

「そうや、黒万呂、俺の介抱しながら、俺が倒れたら、そん時は仕事変わってもらうけん、いまは休んどきや、て言ってくれてたやん」

「そんなことも言ったかな? もう忘れたな」

「結局、黒万呂が船酔いしている姿なんて見たことなかったわ。俺、全然借り返しとらんしな」

「そんな借り、如何でもええわ」

「そらあかんよ、借りは借りやから。それに俺……、良く考えたら、小さい頃からずっと黒万呂に助けてもらってばっかりやし」

「そうか? そんなことないやろ。俺だってお前に助けてもらっとる」

「そうやろか?」

「弟成ってさ、気付いとらんやろうけど、最近僧侶臭くなっとらんか?」

「えっ……、ほんま?」

「ああ、こないだもさ、海に沈んでゆくお日様を見ながら、あのお日様は心の中に沈んでゆくんやな、とか言っとったし」

 初耳だ ―― まさか、そんなことを言っていたなんて………………

「僧侶になった方が、ええんとちゃうの?」

 その時、弟成の頭に、聞師の声が聞こえてきた ―― 私の下で修行をしろ、と………………

 弟成はこれを振り払った。

 ―― 何を言ってるんだ、俺は僧侶なんかになるものか!

「僧侶なんて……、何の得にもならへんやん」

「そうか? 得とかそういうこととは違うんちゃうん。何つうか、何かを探してるんやろ?何かは分からへんけど。その分からへんものを探すなんて、損得でできることとちゃうねんと思うけど」

 まるで黒万呂の方が僧侶のようだ。

「黒万呂の方が僧侶みたいやわ。黒万呂こそ、僧侶になれば?」

「俺はええわ」

「何で?」

「俺は、奴婢の方がええねん」

「何で? 僧侶の方が楽やで。それに、奴婢のようにこき使われることもないし」

「俺、別にこき使われているとは思っとらんで。生きるために働いとんね」

「生きるため?」

「そう、生きるため。生きていくためには、どんなことでもせにゃあかん。そう思ったら、別に辛くないで」

 生きるために働く ―― 弟成には、全く考えつかなかったことである。

 いままで、彼は働かされていると思っていた。

 だから辛かったのだ。

 なるほど、生きるために働くと思ったら、少しは楽かもしれない。

「やっぱり、黒万呂ってすごいな」

「褒めても何も出えへんで。それより、少しでも寝とこ。そやないと明日が辛いで」

 黒万呂は、そのまま夢の世界へと入っていった。

 弟成は、しばらく夜空を眺めていたが、やがて単調な波の音が彼を眠りへと誘った。

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