【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 後編 13
弟成が乗船していた田来津の船は、準構造船であった。
田来津が御座船を護衛するために、運動性の良い船を選んだからであるが、もう一つの理由は、平底箱型だと妙な揺れ方をして、田来津自身の船酔いが酷くなるので、近江(おうみ)で良く乗っていた丸木舟に近い準構造船を選んだからである。
船酔いの酷い弟成にも幸いだった ―― 生まれてこの方、船に乗ったことがなかった。
と言うよりも、椿井(つばい)と斑鳩の里を一歩も出たことがなかったので、海を見るのも初めてだった。
弟成が初めて海を見たのは、百済援軍の一員として難波に下った時である。
『大きいな!』
難波の浜に着いた黒万呂は、その大きさに驚いて声を上げたが、もし彼がそうしなければ、弟成が声を上げていただろう。
それだけ、2人には衝撃の光景であった。
彼らだけではない。
家人たちも、弟成や黒万呂と同じ意見だった。
白浜に、波が寄せる。
寄せては引いてゆく。
2人は、波打ち際まで駆けて行った。
波が、2人の足を洗う。
何とも気持ちが良い。
『すげえな、こんなに大きい池があるなんて。お寺の池とは大違いや』
黒万呂は、海を池と勘違いしているらしい。
『阿呆やの。これは海と言うんやで』
草衣之馬手は得意そうだ。
『海?』
『そう、海や。池の水とちゃうのやで。飲んでみい』
馬手に言われて、黒万呂と弟成は両手で水を掬って一気に口に含んだ。
2人は目を丸くした ―― しょっぱい!
一度口に含んだ水を、再び吐き出した。
馬手は腹を抱えて笑った。
『しょっぱいやろ、海の水は塩水やねん。ええか、この水から塩が取れるんやで』
2人は舌で息をしている。
が、舌の痺れはまだ取れない。
『うわ、しょっぺえ!』
馬手の後ろからも声が上がった。
家人の凡波多や犬甘弓削も、弟成や黒万呂と同じように舌で息をしていた。
『お前らも飲んでどないすんねん。さあ、阿呆なこともここまでや、長屋に行くぞ』
その日以来、浜辺は弟成と黒万呂のお気に入りの場所となった。
荷方の仕事が終わった後は、2人してこの浜辺に遊びに来た。
そして飽くことなく、その勇壮な姿を眺めた。
海は、来るたび来るたび、2人に違う姿を見せた。
時には荒々しく、時には穏やかに。
特に夕日に照らされた海が好きだった。
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