【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 後編 23(了)
油皿の炎が風に揺らぐ。
今日は、風が強いらしい。
聞師は中門にいた。
―― 今日当たりは来るはずだが………………
夜空に雲が流れて行く。
風鐸が激しい音を立てる。
中門が僅かに開いて、一人の男が入って来た。
弟成だ!!
彼は、明かりに浮かび上がる聞師の顔に驚いた ―― まさか、彼がそこにいようとは。
「今日あたり来る頃だと思ってね、待っていたのだよ」
聞師は、弟成に油皿を翳した。
「さあ……」
彼は、弟成を塔へと導く。
弟成は黙って彼に従った。
聞師は、油皿の炎が消えないように、右手で壁を作った。
玉砂利を踏締める音が、風に掻き消される。
2人は、塔の中へと入って行く。
弟成は懐から2体の像を取り出すと、それを前からあった二体の傍に置き、手を合わせた。
聞師は、それを背後で黙って見守っている。
塔内の中も、格子窓を通り抜けて風が吹き抜ける。
「良い顔をしているな、その子たちは。幸せそうな顔だ」
聞師は、2体の像を覗き込んで言った。
「こっちが稲女で、こっちが三成です。私には、2人が笑ったところしか作れませんでした」
「そうか……」
弟成は立ち上がった ―― 塔内を出て行こうとする。
「弟成……、お前、私とともに仏の道を歩んで行かないか? お前は見込みがある。お前なら、何かを掴むことができるかも知れん。どうだ?」
「何かって?」
「それは分からん。それを掴むために、私の下で修行するのだ」
聞師は、弟成の顔をじっと見つめた。
弟成も、聞師の顔を見る。
「私は奴です。明日も、厩の掃除をする奴です。田んぼを這いずり回る奴です。汚いと蔑さまれる奴です。妻も、子も守れぬ奴です。それが……如何して……、あなたとともに歩んで行くことができましょうか!」
「弟成、お前は怨んでいるのか?」
「怨んでいる? 怒っているのですよ! 情けない自分自身に! 私が奴でなければ、妻も、子供も守ってやることができただろうにと!」
「人の生き死に、奴婢であるかどうかは関係がない。それは、人に与えられた定めだ。それに言ったはずだぞ。全ては、心が決めることだ。己の心が決めることだと。心が迷えば、道にも迷う」
「迷っている? 迷ってなんかいません! 私には、確りと道が見えています!」
「道? お前が見ている道とは何だ?」
「私が見ている道とは……、これです!」
弟成はそう言うと、表に飛び出した。
「弟成!」
聞師も彼の後に続く。
風が2人を打つ。
「私は奴です! 奴には、奴の道があります! 私は、奴の道を歩いて行きます! それが、私の正しい道なのです!」
弟成は、玉砂利を踏締める。
今度は、風も彼の足音を掻き消せない。
「心を強く持て! でなければ、お前は、お前自身の心に食い殺されるぞ! 弟成!」
聞師の声は風に掻き消されて、弟成の耳には届かない。
風鐸が、斑鳩の里に響き渡る。
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