見出し画像

【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 後編 11

 長屋は、大人たちが取り囲んでいた。

 弟成は、その大人たちを掻き分けて中に入ろうとした。

「あっ、弟成が帰って来たで。皆開けてやって」

 彼は、大人たちによって前に連れ出された。

 そこには、額に濡れ布を置いた廣成が横たわっている。

 周囲には、彼を心配そうに見守る兄の眞成や黒女たちの姿がある。

「父ちゃん、どないしたんや?」

「おお、弟成か。廣成さん、畑仕事しとる途中で急に倒れてな。意識がなかったんで、ここまで連れて来たんや」

 黒万呂の父親の文万呂(ふみまろ)が弟成に言った。

「今日はこんな暑いのに、水をあんまり取っておらんかったからな」

「父ちゃん、大丈夫なん?」

 弟成は、廣成の顔を覗き込む。

 息をしているのだろうか?

 彼には聞き取れない。

「弟成、そんなに騒ぐな。父ちゃんは、休んどるだけやから」

 眞成が、弟成を嗜めた。

「本当にこの人は、無理ばっかりして! 皆さんに迷惑かけて」

 黒女は半泣き状態だ。

「そんなこと、かまへんて。それより、大丈夫かいな?」

 文万呂も、廣成の顔を覗き込んだ。

 その目が、廣成の目と合った。

「おお、気付いたか! 大丈夫か、廣成さん?」

「廣成、大丈夫か?」

「あんた?」

「父ちゃん?」

 様々な声が、横たわる人の上を飛び交う。

 廣成は、じっとあばら屋根を見上げている。

「喧しいな、なんもないって! 石に躓いただけや!」

 彼はそう言うと、起き上がろうとした。

「あんた、あかんって、まだ休んどかんと」

 黒女は、彼の肩を抱いて、寝かしつけようとする。

「阿呆! まだ、仕事が残ってんねん」

 廣成は、無理やり起き上がろうとする。

「あかんって、廣成さん、休んでなって。仕事なら俺が代わりにやっからよ」

 文万呂も廣成を制する。

 そして、周囲の者たちも、「俺たちも手伝うから、休んでろ」と言ってくれた。

「そうや、廣成、今日はもう休め」

 眞成もそう言ったので、廣成もその気になって、再び横になろうとした。

 その時、人垣を怒鳴りつける声がした。

「何だお前ら! そんな所で休んでないで仕事せんか!」

 その声は、寺法頭の下氷雑物である。

 彼は、部下を引き連れ長屋に入り、寝ている廣成を見下ろした。

 廣成は、それに驚き、跳ね起きた。

「何だキサマ、何をこんな所で休んでいる!」

 雑物は、廣成を睨み付ける。

「申し訳ありません、いま、仕事に戻りますので」

 廣成は、そう言うと立ち上がったが、どうも足下が覚束ない。

「父ちゃん!」

「あんた!」

 弟成と黒女は、廣成を抱きかかえた。

「申し訳ありません、法頭様。廣成が畑仕事の途中で倒れましたので、ここで休ませていたのでございます。どうも、まだ体調が悪いようですから、今日は、もう休ませたいのですが……」

 奴長である眞成は、雑物に言った。

「何、休ませたいと? しかし、本人は大丈夫だと言っているではないか」

 雑物は廣成の顔を見た。

「はい、大丈夫です。仕事に戻れます」

 廣成はそう答えた。

「しかし、法頭様……」

 なおも、眞成は食い下がろうとする。

「うるさい! 本人の体調は、本人が一番分かっているのだ。他人が口を出す問題ではない。いいから仕事に戻れ!」

 弟成は雑物を睨み付ける。

「何だキサマ、その目は!」

 雑物は持っていた鞭を振り上げた。

「法頭様、大丈夫です。私なら、大丈夫です。仕事に戻りますので」

 廣成は弟成の腰紐を持って、彼を引き摺り下げた。

「ふん、では仕事に戻れ! お前たちも、早く戻らんか!」

 雑物は鞭を振り回し、奴婢たちを長屋から追い出す。

 眞成や文万呂も仕方なく表に出て行く。

 廣成も、黒女とともに外に出た。

「父ちゃん……」

 弟成は廣成に追いすがった。

「大丈夫やって。父ちゃんは、人一倍体は丈夫なんやから」

「そやけど……」

「それより弟成、早く厩に戻れ。お前には、お前の仕事があるやろうが。ほら、早く」

「父ちゃん……」

「弟成。俺たちは奴婢や。奴婢は、主人の言うことを聞かなあかん。ええな」

 廣成は、黒女に支えられながら歩いて行った。

 弟成は、その背中を見守る ―― 父の背中は、あんなにも小さかっただろうか………………

 それから数日後、廣成は寝床から起き上がって来なかった………………塔の中の像がもう一体増えたのは、言うまでもない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?