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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 後編 11

「そろそろ行くぞ!」

 派遣隊の頭となった馬手が、出発を告げた。

 夫々の家族の泣き声が一際大きくなる。

 見送りに来た僧侶や従者、家人や奴婢たちからは熱い声援が送られる。

「じゃ、母ちゃん、行って来るから!」

 弟成は、黒女の手を強く握った ―― か細く、いまにも折れそうだ ―― 母の手は、こんなにも小さかっただろか?

 ―― そして、温かい………………

 この温もりは、一生忘れないだろ。

「母ちゃん、放してくれんと行けんから」

 三島女は、黒万呂の首にしがみ付いて放れようとしない。

 僧侶たちが、戦勝を祈って経を唱え始めた。

 その中に、入師と聞師の姿もあった。

「私は、あいつを救えませんでした。道に迷っているあいつを、救ってやることができませんでした」

 聞師は、入師に言った。

「そうでしょうか? 迷っているのは、あなたかも知れませんよ」

「私が?」

 入師の意外な答えに、聞師は驚いた。

 ―― 私がなぜ迷うのか………………

「人とは、何と悲しい生き物ではありませんか。辛くとも、悲しくとも、貧しくとも、それでも生きてゆく。殴られても、蹴られても、蔑まれても、それでも生きてゆく。いや、生きていかねばならぬ。それは、涅槃の道に入るよりも、難しい究極の道かもしれません。私には、あの子がその道を確りと歩んで行っているように見えるのですが、違いますか?」

「究極の道……」

 聞師は弟成を見た ―― 彼には究極の道は見えない。

 だが、弟成には見えているのだろか?

「馬手、戻って来いよ!」

「波多、体に気を付けてな!」

 家人の中から声援が飛ぶ。

 黒万呂と弟成に対しても、奴婢の中から声援が飛んだ。

「黒万呂、弟成、お前ら、俺らの誇りやど!」

 厩長(うまやのおさ)の声だ。

 弟成と黒万呂は、声の方を見た。

 厩長の他に、厩の仲間たちが手を振っている。

 黒万呂は、彼らに拳を作って見せた。

「黒万呂、弟成、早く来い!」

 馬手は二人を呼び、派遣隊の人間を一列に整列させた。

 彼の合図で、弟成たちは見送りの人たちに頭を下げる。

 歓声が大きくなる。

「それでは、出発!」

 馬手は両腕を大きく振り上げて歩き出した。

 他の家人たちも続く。

 弟成は、もう一度振り返り、黒女たちを見た。

 ―― 皆、さようなら、元気でな。

 そして、天高く聳え立つ塔を見上げた。

 ―― この塔も今日で見納めやな。

    父ちゃん、兄ちゃん、稲女、三成、行って来るで………………

 彼は、前を確りと見据え、腕を大きく振って歩き出した。

 塔は、彼らを静かに見送った。

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