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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 中編 11

 百済における軍事指揮権は、もちろん中大兄に帰属していたのだが、増援となると公民を徴収することとなるため、どうしても大王の裁可が必要であった。

 だが狭井檳榔の予想したとおり、今回も増援支持と反対で大殿内が対立した。

 増援支持は中大兄である。

「百済は、既に国として成り立っております。一国の王が大王を頼って増援を求めているのです。ここは同盟国として、いえ宗主国として、さらなる援軍を送り込み、半島での百済の地盤を確実にすべきです」

 これに反対したのが、もちろん中臣鎌子である。

「これ以上の増援は無理です。既に我が国の人員派出は許容量を超えています。これ以上良民を徴収すれば、我が国の経済基盤が揺らぎます。それだけではありません。もしやすると、良民の反乱も考えられます。ここは、先の軍の力を十分に発揮させて戦うべきです」

「内臣、兵士ならいるではないか、お前の指示で集めた2万近くの兵士が」

「あれは、百済援軍のための兵士ではありません。唐・新羅軍が我が国に襲来した時の防衛軍です」

 唐・新羅軍と対立していた高句麗から援軍要請が来た折、鎌子は半島情勢が最終局面に達した場合のことを考えて、各地から良民を徴収し、防衛軍として組織させていたのである。

「我が国に、唐や新羅が侵略してくるはずはあるまい。半島の北部には、幾度となく隋・唐軍を退けている高句麗があるのだし、百済も復興したのだ。その危険性はない。おまけに、我が国は神々が守り給う神国だぞ。異民族が侵略しても、神々が守って下さる。そうではないか?」

「はあ、確かにそうですが……、しかし、もしもの時に備えは必要かと」

 鎌子は返事に窮した。

「万一のことがないように、お前たち ―― 中臣や忌部(いんべ)がよく神に祈れば良いではないか」

 鎌子は苦虫を噛み潰した。

「しかし、防衛軍は必要と考えますが、中大兄」

 赤兄も、今回ばかりは鎌子に同調した。

 彼は、彼の下に齎される情報から、百済軍と倭国軍が咬み合わずにおり、加えて豊璋王の指揮能力に疑問があると分析し、早い時期に百済に見切りをつけるべきだと考えていた。

「百済は、いま増援が欲しいのだ。いまから兵士を徴収し、訓練している暇はない。だから、その防衛軍を転用させて欲しいと言っているのだ。防衛軍は、また徴収し直しても間に合うだろう?」

「そんなことを言っている訳ではございません。中大兄は、あなたはいま百済のどの城が落とされて、どの城が無事なのかご存知なのですか?」

 鎌子には、大伴朴本大国から詳細な情報が入っている。

「そんなこと、私に分かる訳ないではないか!」

「そんなことですと……? あなたは、百済派遣軍の最高指揮官なのですよ。そのあなたが、現場の状況も知らないで、どうやって指揮するのですか!」

 鎌子がこれ程、声を荒げることは稀であった。

「これを知るをこれを知るとなし、知らざるを知らざるとなせ、これ知るなりだ。知った被りしてもはじまらん。それに、そういった細かいことは、現場の将軍たちに任せてある」

 鎌子は、あきれてものが言えなかった。

 流石の赤兄も、この言葉には参ってしまった。

 鎌子は、中大兄と議論するのを止め、大王に向き直った。

「大王、私は百済増援は断固として反対です!」

 鎌子は厳しい顔で奏上した。

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