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「年齢の壁」。数字と履歴書一枚で何が分かるというのか?

予想はしていたが、それ以上に年齢の壁は分厚かった。紙ペラ一枚の、吹けば飛んでくような履歴書に相反して、目の前に聳えた壁はどっしりと鎮座して49歳主婦の行く手を阻む。


4月に求職活動を開始してから、これまでに派遣会社と人材会社を通じて3社に応募した。いずれも、現段階で第一希望の出版・マスコミ業界、前職と同じ、紙媒体の編集ライター職が希望である。当たり前だが、何でも良い訳ではない。やっと探し出した希望条件にマッチする3つの募集案件だった。ようやく子育て終了し、晴れてバリバリと働ける身となった私は、やる気満々で正社員、紹介派遣、派遣、いずれもフルタイムを希望した。4月下旬のことである。


「残念ながら、書類選考で…」

ゴールデンウイークが明けて、人材会社の担当から2社、書類落ちの連絡メールを受信した。派遣会社を通じて応募した1社(紹介予定派遣の案件)からは二週間以上経っても連絡がないため問い合わせた。すると「まだ書類選考中のようで。弊社からは○○さんでお話を進めているので、もう少し待ってもらえますか?すみません」と担当者の返事が返ってきた。企業からはその後も「なしのつぶて」である。応募してからちょうど一か月経過した。


40代後半、50代以降の求人が極端に少ないこと、正社員は厳しいことは、求職活動を開始して認識していたし、人材紹介会社の担当者からも事前に聞いていた。実際、少ないながらも、求人自体は「ある」のだ。ブランク無しで働き続けていることを前提で。しかし、育児や介護、配偶者の海外転勤で一旦でも仕事から離れた女性のことは、ほとんど考慮されていない。(このドメスティックな業界ならではだろうか?)

専業主婦あるいはブランクのある主婦、パートやアルバイト等、正社員ではない雇用形態の長い40代・50代女性を、企業は正社員として真面目に登用する気が無いのだろう。これだけ女性活躍推進、ダイバーシティが唱えられている人材不足大国・日本だというのに、その現実は、なんとも矛盾した旧態依然とした企業的価値観が蔓延しきっているのである。

私の場合、そこそこ長い人生をかいつまんで振り返れば、新卒で某大手有名企業に正社員勤務した後に、健康面やその他の訳あっていくつかの仕事を経験している。その後、妊娠出産期間を経て社会復帰するも、夫の海外転勤に帯同したことにより、不可抗力で「駐在妻」という名の「海外在住専業主婦」になった。海外では、働けない代わりにボランティアやPTA活動、子供と自身の語学習得にいそしんだ。異国暮らしの家族の健康と安全、そして日本での教育と遜色無きよう環境を作り守ってきた自負がある。帰国後、知人の声かけでライターの仕事を始め、その後、出版社で紙媒体の仕事をしてフリーで10年間働いてきた。職歴として記されることのない期間を、決して何もせず過ごしていたわけではない。

履歴書を見ればブランクが多いし、キャリアの一貫性があるか?と言えば、「ない」だろう。全く別の業界・職種から、40という年齢で大きくキャリアチェンジしていることも、悪目立ちするかもしれない。しかし、私自身の中には何ら矛盾はない。かつて文学少女時代を過ごし、作文やら感想文、エッセイ等のコンクールでは時々賞などをいただきながら文学系学部を卒業した。それまで、「読み書きする力」で稼ごうとは考えなかっただけである。縁あって仕事にしてからの10年間は、常にスキルアップを心がけつつも、あえて私をとりまく諸事情とのバランスをとって仕事をしてきた。だが、こうした「一貫性がない」「ブランクがある」「フリーランス(定職についていない人)」の履歴書は、採用担当者からは嫌われるのだろう。さらに40代・50代であれば、それだけで門戸を閉ざされてしまうのも無理もないというところか。


しかし、49歳の私は思う。何かが、おかしくないか?

長く生きていれば、一つや二つ、履歴書にブランクがあっても何ら不思議ではない。20代には起きなかったようなことが、突然身の上に起きるのが人生というものだ。本来それは、女性に限らず、男性であっても同じはずだ。妊娠、出産、育児という大イベントを経る女性は、必然的に飛び越えるハードルが多く、そして高くなる。

置かれた環境と条件で「今できること」、いただいた仕事を一生懸命やってきた。20代の頃の自分には無かった人生経験と智慧のすべてが、そして子供を産み育てた経験が、仕事の肥やしになっていると確信している。採用担当者は、40代50代主婦を年齢で区切って除外する前に、こうした経験をキャリア要素としてプラスに捉え、総合的に評価することはできないのだろうか?もうすぐ50歳になる主婦、定職についていない、ブランクがある等の理由でふるいにかけられ、機会を与えられない。けれど、ブランクや転職、キャリアチェンジは、子供を産んで真剣に育てたら、基本的に当たり前のことではないだろうか? 

全ての人が健康で病気をしない訳ではない。夫の転勤辞令が下れば、妻は自らの仕事を辞めてついて行くか、単身赴任を選ばざるを得ない。それで仕事を辞めたのは、本当に自己責任なのか? 突然の転勤で失業した妻も単身赴任者とその家族も、企業論理と社会福祉システムによる弊害、犠牲者では無いのか? 結婚退職の慣習もまだまだ残る時代、私が出産した頃の世の中、2000年初頭の社会も企業も、保育所の待機児童問題や企業による育児サポート、父親の育児参加、全てにおいて今よりも整わない時代だったのだ。だが、残念ながら、採用決定権を持つ男性管理職(多くは私と同世代かそれ以上か?)のほとんどが、そこまで思い至ることは無いだろう。自らは仕事オンリーの生活、妻任せで家事育児に関わってこなければ、そんなことを知る由もないのだから。企業と労働市場の乖離が生じる根源がここにある限り、超少子高齢社会・日本の未来は暗い。国内の同一業界文化にどっぷり浸った経営者と人事採用者たちは、海外のダイバーシティ文化と女性活用の実態を広く見渡してほしい。まともな社会人であれば、この先進国にして女性人材登用水準が最低レベルの日本で、どこで目詰まりを起こしていて、何が課題なのか、はっきりと認識できるはずだ。


私があえて、フリーランスという働き方を選んだのは、不器用ゆえに育児も仕事も等しく上手くやれる自信が無かった、一度しかない子育てを中途半端にして後悔したくなかったのが一番の理由である。とても苦労して娘を産んだ。そして、「一人の人間を育てる」という重責を授けられた以上、子供の健全な養育と教育をおろそかにはしたくないという気持ちだった。だからと言って、任された仕事に手抜きをしたことは、一度もない。フリーランスという不安定な立場ではあっても、それ故に、分量を抑えつつもプロとして真面目に仕事に取り組んできたつもりだ。
それなのに、有無をいわさず40代後半という年齢でふるい落とされることが悔しく、とても残念である。20代30代の同職応募者と比較して「職能」や「実績」が劣っているならば納得ができる。それは仕方がないとあきらめようもある。「自分の希望に合う面白い仕事だ。条件も合致している」と喜び勇んで応募しても、面接まで至らなければ、「アラフィフの私」はバッターボックスに立ってバットを振ることも許されないのだ。


薄っぺらい履歴書一枚で、一体何が分かるというのか? 

「私」という人間は、ここにいる。一緒に働くのは、生身の人間だ。49歳という数字ではなく、私の目を見て、話して、そして判断して欲しい。今の時期なら、たとえオンラインであっても、向き合って話せばよい。

それとも、そんな時間さえも惜しい、49歳の主婦はそんな微々たる時間と手間にすら値しないというのだろうか? 年嵩のいった生意気な女は扱いづらい、必要ないということか?

私は、胸を張って一生懸命に生きてきた。この履歴書と、そこに記されることのない私の人生に、恥じることは何一つないというのに。