美味しいほうを譲ってくれていた母は、自分を犠牲にしていたわけではなかった
今日、3歳の娘と、
みかんを食べました。
わたしは、幼い頃からみかんが大好き。
冷蔵庫から、みかんを二つ出し、
娘に一つを、渡しました。
すると、娘に渡した方は、
皮と実の間に空洞があるのか、
ペコッとへこんでいて、
あまり美味しそうではありませんでした。
一方で、わたしの手元にあるみかんは、
実がぱんぱんに入っている様子で、
とても美味しそう。
二つのみかんを見比べながら、少し考えて、
美味しそうなほうを娘に渡し、
美味しくなさそうなほうを
自分が食べることにしました。
このとき、
まだ娘がお腹の中にいるときに、
実母に話した、
「わたしは、お母さんみたいに、美味しいものを子どもに譲ることはできないと思う。」
という、自らの発言を思い出しました。
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わたしの母は、物心ついたときから、
何か食べ物があると、
必ず美味しそうなほうを
子どもであるわたしたちに譲ってくれました。
そんな母を見て、
「子どものために、
自分を犠牲にしなくてもいいのに。」
「自分が母親になっても、
自分だって美味しいものを食べたいから、
子どもに譲るなんてできないわ。」
と、常々思っていました。
でも、いざ、自分が母になると、
娘に、美味しそうなほうを譲る選択をしていて、
なんだか意外で、驚きました。
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わたしも、母みたいに、
自分を犠牲にして、
子どもに美味しいほうを
渡すようになったのかな、
と、考えたのですが、何か違う気がする・・
別に、この選択で、
自分を犠牲にしたつもりはないよなぁ。
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わたしが、
美味しそうなみかんと、
美味しくなさそうなみかんを
手にとったとき、
とっさに考えたのは、
美味しくない方を娘に渡して、
娘にみかんを嫌いになってほしくない。
ということでした。
絶賛、偏食中の娘。
みかんは、スムーズに食べてくれる
数少ない食べ物なので、
これからも食べて栄養をとってほしい。
だから、美味しいみかんを渡すという
選択をしたのです。
娘がみかんを食べてくれることで、
もちろん、娘は栄養を摂ることになりますし、
なにより、
常に娘の偏食が気がかりな
自分の心が救われます。
つまり、美味しいみかんを娘に渡すことで、
結果として、自分を満たしているのです。
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このことに気づいたとき、
自分の母も、自分を犠牲にして、
子どもに美味しいものを譲ってきたのではなく、
子どもが栄養をとると、自分の不安がなくなる
子どもがたくさん食べる姿を見ると、
自分が安心する
子どもの笑顔が見られると、自分が嬉しい
というように、
当時の母なりの価値観で、
自分が満たされる選択をしてきたのかな、
と思えました。
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今日はみかんのケースでしたが、
おいしいデザートをもらった場合、
今のわたしは、娘に内緒でこっそり食べます。笑
でも、いつか、
思春期で話してくれなくなった娘と、
少しでもコミュニケーションをとりたいがために
美味しいデザートを娘に譲るのかもしれません。
その場合も、
自分を犠牲にしているようで、
実は、娘と話したいという自分の気持ちを
満たすことになります。
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母は、自分を犠牲にして、わたしを育ててくれた
友人と話していると、
よく、こんな言葉を耳にします。
でも、きっと、
本人たちは、自分を犠牲にして、
子どもを育ててきたつもりはないのでしょう。
自分を満たすための選択をした結果が、
子どもに美味しいほうを譲ることだったのです。
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このように母親の心理を解釈できるようになり、
母の子育ては、
わたしが想像しているよりも、
辛いものではなかったのかもしれない、
と思えて、
なんだか気が楽になりました。
そして、実は母も、
自分を犠牲にしてきたわけではないのだから、
なおさら、自分も、母だからといって、
自分を犠牲にしなくていいのか、と
謎の自信がもてました。
これからも、
日々、自分を満たす選択を重ねて、
子育てをしていきたいです。
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🔻子どもの好みも、自分の好みも、大切にしたい。
🔻美味しいほうを娘に譲る代わりに、偏食娘に栄養をとらせて安心を得ることも、トレードオフ
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