hima

二児の父親。主夫。 最近鬱になりました。 哲学とか読書とかゲームとかサッカー観戦とかが…

hima

二児の父親。主夫。 最近鬱になりました。 哲学とか読書とかゲームとかサッカー観戦とかが好きです。 noteではいっちょかみでイロイロ書こうと思いました。スキ、コメントなどいただけると大変嬉しいです。 よろしくお願いします🙇

マガジン

  • デリダを読む

    デリダの著作及び関連の本を読んでいきます

最近の記事

デリダを読んでいく③~ルソーvsデリダ『グラマトロジーについて』

ジャック・デリダとその関連本を読んでいく第三回は『グラマトロジーについて』である。 「グラマトロジー」とは文字学というような意味であるようだ。 デリダは、ソシュール、レヴィ・ストロース、ルソー等の読解を通じて西洋哲学に深く刻み込まれている「音声中心主義」を見つつ「現前の形而上学」について批判的に検討していく…訳だが、デリダらしく(?)その内部に深く潜り込んでいきその限界点を抉り出すような検討の仕方をしているのでなかなか読み通すのが難しかった(こういう本の解説としてウィキペディ

    • 「私の不在」問題

      先日書いたデリダについての話の余談で、「私の不在」について書いた。今回は補遺としてそのことについて少し書いておこうと思う(今回は短めです)。 僕たちは「私の不在」について、死の問題に引き付けて考えがちである。その代表はハイデガーであろう。ハイデガーは現存在(人間)のあり方を死への先駆的決意性と位置付けた。難しい言い回しだが、その時々の一時のあり方ではなく死へ向かっている全体を人間の生と捉えなければならないと考えて良いと思っている。 事程左様に、不在について考えるとき僕たちは

      • デリダを読んでいく②~フッサールvsデリダ『声と現象』

        今回は『声と現象』である。 フッサールの『論理学研究』や『イデーン』の読解を通じてフッサール現象学の形而上学的原点を探るという内容であり、それ自体がとてもピンポイントで深い議論となっていると思われ、その全部をつまびらかに見ていくことはここではとてもできそうもないので、僕なりにポイントを絞っていくことにしたい。 そのポイントは、〈私〉に関わる部分である。 具体的には、第七章「根源の代補」において〈私〉という言表についての議論がある。フッサールにおいては、他者との会話における指

        • デリダを読んでいく①~『ジャック・デリダ「差延」を読む』を読んで「差延」を読んでみた

          突然だがデリダについてはずーっと挑戦しようと思っていて、購入した本が積まれている事態となっていた。 なかなか挑戦の機会が得られなかったのだが、この度『ジャック・デリダ「差延」を読む』(森脇透青・西山雄二・宮崎裕助・ダリンテネフ・小川歩人共著)を読んだので、「差延」(『哲学の余白 上』所収)を読んでみることにした。僕にとってはそれでも難解な文章であることに変わりはないのだが、少しだけ分かったこともある気がしたのでここに記しておこうと思う。 「差延」論文はそもそもフランス哲学会

        デリダを読んでいく③~ルソーvsデリダ『グラマトロジーについて』

        • 「私の不在」問題

        • デリダを読んでいく②~フッサールvsデリダ『声と現象』

        • デリダを読んでいく①~『ジャック・デリダ「差延」を読む』を読んで「差延」を読んでみた

        マガジン

        • デリダを読む
          3本

        記事

          孤独について 

          早いものでもう2月も半ばである。 先月も書いたことだが前年の末頃から鬱病になった。 だから、なのかどうかは分からないが、最近は孤独についてよく考えていた。分からない、というのは、鬱になる以前から孤独というのは僕のテーマの一つで考えてはいたからではある。しかし、自分でもこの病の体験を通じて少し変化があったように思うし、それはもしかしたら他にも通じるものであるかもしれないと考え、この文章を書いてみようと思っている。 さて、孤独について考えるといってもむやみやたらと考えていっても

          孤独について 

          「自己」について~上田閑照『実存と虚存 二重世界内存在』を読んでみた

          今月に入って藤田正勝『日本哲学入門』を買って読んでいた。 正直日本哲学は得意ではない(^^;)ので、一通り読んで見たものの消化できているかどうか自信はない。西周や西田幾多郎、三木清などとにかく広範囲に渡って言及されているので非常に勉強になる。 興味を惹かれる話は色々あった。今回はその中で名前が出てきた上田閑照(”しずてる”と読む)の『実存と虚存 二重世界内存在』を入手して読んでみたので、そちらの話をしていきたいと思う(『日本哲学入門』の話じゃなくてゴメンナサイ)。 さて、こ

          「自己」について~上田閑照『実存と虚存 二重世界内存在』を読んでみた

          ハイデガーとの対決

          0.はじめに ちょっとだけ自分語りを許してもらいたい。 僕は10年ほど前に仕事を辞めて主夫になった。 その頃から家族に甘えながら家事の傍ら趣味として哲学の本を読んでいく時間をもらい、今に至っている。 僕は10代の若いときから哲学や思想の本を読むのが好きだった。当時は東浩紀、宮台真司、西部邁など活躍している方々の本をミーハーに読んでいた。仕事も忙しくなるにつれてそんな時間も取れなくなっていたが、その仕事を辞めたとき、もう一度哲学の本を読んでみようかと思った。 そんなとき、何

          ハイデガーとの対決

          言葉と意味〜野矢茂樹『言語哲学がはじまる』を読んで

          また新しい年を迎えた。日本も波乱の幕開けとなっているが、皆さんはどんなスタートを迎えられているだろうか。自分はというと昨年末から鬱病を患って読書もなかなかままならない状態になってしまったのだが、家族の協力を得て大分症状も改善してきたので最近はゆっくり本を読めるようになってきた(自分の鬱の体験はまたいつか言葉にしてこちらで書いてみたいと思っている。まぁさすがに今は無理だが)。 そこで読んでいたのが岩波新書の野矢茂樹『言語哲学がはじまる』である。 内容としてはフレーゲ、ラッセル、

          言葉と意味〜野矢茂樹『言語哲学がはじまる』を読んで

          ベートーヴェンのアウフヘーベン

          今月はいろいろあって書くの難しいかなぁとも思ったのだがせっかくだから毎月の連続投稿くらいは頑張ってみようと思う。 しかし最近は本もあまり読めてないのでさて何を書こうか、というところなのだが、年末だということもありベートーヴェンの第九について書いていこうと思う。 年末の日本では色々なところで演奏される第九だが、あの有名な歓喜の歌(第九=交響曲第9番の第四楽章でソリスト・合唱と共に高らかに歌い上げられるあのメロディー♪)は詩人シラーの詩から歌詞がとられており、シラーはヘーゲルに

          ベートーヴェンのアウフヘーベン

          世界観と僕たちの世界について

          1.データベース世界観の問題点 先月は昔書いた「独我論批判」をそのままnoteに写しておいた。 その中で僕は「データベース世界観」なるものを提示している。あくまで独我論を批判するために一つのあり得る世界観として書いてみたものであるが、これには独我論側から反論可能な欠陥があるように思っている。そして、その欠陥が、それら世界観の同じ根っこを示しているように思えるのだ。 今回は、その根っこに少しでも近づくことを目指してみたい。それが哲学というものが二千数百年の昔から語り続けてきた

          世界観と僕たちの世界について

          前に書いた「独我論批判」

          以前、読書ノートみたいなものとしていくつか文章を書いていた。そのうちの一つをnoteに記しておきたいと思う。 というのも、今考えていることを一旦まとめてみたいと思ったのだが、その前段階として以前書いたこれが基盤になるかもしれないと思えたからだ。 以下、このファイルの文章である。 ================================== 独我論批判~私が読んだもの達へ 其の三 2016年 6 月 平塚正法 「世界って何だ?」という問いは哲学の大きなトピック

          前に書いた「独我論批判」

          ショーペンハウアーの「無関心」

          もう10月。 札幌も残暑という感じだったので一気に寒くなった気がして、秋を楽しむ気分にはなかなかなれない。 鳥越覚生『佇む傍観者の哲学』を読んだ。 ショーペンハウアーを「無関心」というキーワードで読み解いていく。ここでいう「無関心」とは、僕たちが美しい風景を見るときのように、日常的な利害関心を離れて、というような意味で言われている。本のタイトルのように、利害関心にとらわれていた僕たちが「佇む傍観者」として無関心に風景と出会うとき、その美しさが僕たちに現れてくるのだ。そして「

          ショーペンハウアーの「無関心」

          訂正可能性の民主主義

          東浩紀『訂正可能性の哲学』が出版された。 『存在論的郵便的』『動物化するポストモダン』『クォンタム・ファミリーズ』『一般意志2.0』…と色々書いてきた東浩紀の、『観光客の哲学』と共に主著となる(であろう)本である。 僕はこの本を『ゲンロン0』『観光客の哲学増補版』を読みながらとても楽しみにしていた。そして期待を裏切らない、いや、期待以上の面白さを感じながら読んだ。 まず僕なりに内容をざっくりまとめてみようと思う(以下が訂正の必要のない正しい読解だとは思わないが)。 前著『観

          訂正可能性の民主主義

          マッキンタイアから動物論再考

          暑い・・・ これを書き始めた2023年8月23日、札幌は史上最高気温の36.3℃になったらしい。 それはさておき、先月はハイデガーとデリダの動物論について書いた。 今回はコミュニタリアン/徳倫理学者(となぜか本人は言わないらしいが)のアラスデア・マッキンタイア『依存的な理性的動物』を読んでみてもう一度動物についてを考えてみたいと思う。 ただこの本は、他者への依存がデフォルトであるヒトが、動物と地続きの自らの種の固有性の開花のためのコミュニティの政治的・社会的条件、といっ

          マッキンタイアから動物論再考

          善について~けう@keuamebablogさんのツイートに寄せて

          今回は魅かれたツイート(TwitterはXになったからもうツイートとか言わないのか?まぁどうでもいいけど)について考えてみようと思う。 けうさんの善についてのツイートである。 この一連のツリーな訳だが、善について考えるヒントが色々詰まっているので少し考えてみたいと思ったのだ。 まず最初のツイートから。 ヒロアカの主人公の「自分がどうであれ困っている人を助ける」ことに「善そのもの」を見出す。 (ヒロアカの主人公の「善」は正にフランソワ・ジュリアン『道徳を基礎付ける』の言う所

          善について~けう@keuamebablogさんのツイートに寄せて

          動物について───ハイデガーVSデリダ

          もう7月も後半になってしまった。 ウチの子どもたちも来週から夏休みである。 何とか毎月note書こうと思っているので、ちょっと焦り気味・・・ 今回は宮崎裕助「ジャック・デリダ」を読んで面白かったのもあり、ハイデガーの有名(?)な動物のテーゼについてである。まずはその三つのテーゼを確認しておこう。 これはハイデガーの講義録「形而上学の根本諸概念 世界-有限性-孤独」(ハイデガー全集では29/30巻であり、日本語訳本はかなり分厚い)で言及されている。この講義は1929年のもの

          動物について───ハイデガーVSデリダ