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ハイデガーとの対決


0.はじめに

ちょっとだけ自分語りを許してもらいたい。
僕は10年ほど前に仕事を辞めて主夫になった。
その頃から家族に甘えながら家事の傍ら趣味として哲学の本を読んでいく時間をもらい、今に至っている。
僕は10代の若いときから哲学や思想の本を読むのが好きだった。当時は東浩紀、宮台真司、西部邁など活躍している方々の本をミーハーに読んでいた。仕事も忙しくなるにつれてそんな時間も取れなくなっていたが、その仕事を辞めたとき、もう一度哲学の本を読んでみようかと思った。
そんなとき、何故か選んだのがハイデガーである。
岩波文庫版の『存在と時間』を手に、僕は途方にくれた。書かれていることの半分以上、いや、大半が訳が分からない。
しかし、僕は確かにそこに何かを読み込んだのだ。手も足も出ないけれども、それでもそこには当時の僕にとって大切な何かが書かれていた。
僕は別に哲学の専門家や研究者ではなくただの読書好きのオッサンだけれども、折に触れてハイデガーについて考えている。冒頭の写真のように蔵書も増えた。
そこで、10年という節目をいい機会だということにして、ハイデガーとの対決を書いてみようかと思う。

1.ハイデガーを読む

さて、大仰に「ハイデガーとの対決」とか言い出してしまったが、そもそもハイデガーの哲学を知らないのに対決などできようはずもない。今回、僕がハイデガー理解の導きの糸として使うのは、轟孝夫『ハイデガーの哲学』(講談社現代新書)である。

『存在と共同』『ハイデガー「存在と時間」入門』『ハイデガーの超‐政治』と出版してきた轟孝夫の2023年の新刊であり、後期ハイデガーまでを語っている。そして何より、ハイデガーがテーマとしていた「存在」の思索についてその変遷と共に一貫した探求であることを描き出しており、それは僕のつたないなりのハイデガー理解を大いに助けてくれるものである。
では、ハイデガーが終生探求した「存在」とは何なのか、早速『ハイデガーの哲学』から見てみよう。

…われわれが鳥を捉えるときには、「鳥」という「モノ」とともに必ず、「飛んでいる」、「木の枝に止まっている」といったような「あり方」、すなわちその鳥の「存在」の様態も一緒に捉えているのである。

轟孝夫『ハイデガーの哲学』p.67

僕たちがモノをモノとして見るとき、そのモノと同時に、そのものがどのようにあるのかというその背景を一緒に捉えているのだ、という訳である。ハイデガーはモノを「存在者」、そのモノのあり方、背景を「存在」という言葉を使って区別した。背景としての存在は「時‐空間」と言われたりもする。そしてハイデガーの問題意識は、西洋の哲学は「存在者」にばかり注目をして「存在」をないがしろにしてきたのではないか、ということにある。
なぜ「存在」をないがしろにしてきたことが問題だというのだろうか。それは、そのモノ=「存在者」が、それがあるべきあり方、相応しい背景のもとにあるかどうかは、そのあり方、背景である「存在」を含めて考えなければ分からないからだ。「存在者」だけを見ていたのでは、それを人間の、あるいは自分の都合のいいように利用することはできるかもしれないが、その「存在者」にとって相応しいあるべきあり方であるのかどうかは分からない。だから僕たちは改めて「存在」へと目を向けるべきだ、というのが大雑把な理解ではあるがハイデガーが「存在」の意味を考え続けた理由であろう。
残念ながらハイデガーの主著と言われる『存在と時間』は完結していない。『ハイデガーの哲学』の中でも指摘されているように、未完である『存在と時間』におけるハイデガーの哲学が一般によく理解されているとは思えないし、「死への先駆」や「本来性/非本来性」のような言葉が良くあるような「人間いつか死ぬのだから悔いのないように日々を生きよ」とか「人間の本来あるべき姿を求めよ」といった人生訓のようにしか受け取られず、その人生訓がどのように導かれているかということにはあまり関心が寄せられていないような気もするのだが、それらが『存在と時間』の時期にあっても「存在」についての探求から導かれている話なのである。
後期ハイデガーに至って「Gestell(駆り立て組織)」や「技術への問い」という問題への言及、「放下」という考え方等に関して(ここではこれらの問題には詳しく踏み込んでいるとキリがなくなってしまうので興味がある方はぜひぜひ轟さんの本を読んでみて下さい!僕は基本的にはこの本の解釈を支持します)も、一貫して「存在への問い」に導かれているのだと考えられるのである。

2.ハイデガーの道具連関の分析とそこへの疑問

『存在と時間』には有名な道具分析がある。
例えば職人が使うハンマーはくぎを打つ、くぎは木材と木材をつなぎ合わせる…など道具はそれぞれその「~のため」という連関でつながっている。そしてその連関がうまく機能している間はその道具の存在を意識することがないが、ハンマーが壊れたりして機能不全に陥った時その存在意義が際立って意識されその存在を顕かにするというのである。
『存在と時間』の中でもこの道具連関の分析の箇所は単独で評価されている部分でもある。確かに現存在としての人間にとってこの道具連関のつながり、そしてそれが何等かのエラーによって気付かれるということには納得できる気がする。
しかしちょっと待てよ、と僕は引っかかってしまうのだ。
何かが上手くまわっているようなとき、その部分部分の存在意義へと意識が向けられづらいということはあるかもしれないが、本当に機能不全を起こさない限り僕たちはその存在意義に気付くことがないのだろうか。であれば、僕たちはどうやって何かを上手くまわすことができるようにすることができるのだろうか。
僕たちは初めは物事の存在意義を意識しながら何かが上手く回るように組み立てる。そしてそれが当たり前のものとなっていくにしたがってハイデガーの言うように道具連関の中でその道具の存在意義を忘れてしまう。そしてだからこそ、何かエラーが起こった時にはその道具の存在意義を「思い出す」ことができるのだ。
そしてさらに、初めに何かが上手く回るように組み立てるという場合、それは試行錯誤の繰り返しになるだろう。その局面においては、エラーは常態である。僕たちが生きていく中で、道具の存在意義を忘れてしまえるほどに上手く回るようなことはどれほどあるだろうか。僕たちの現存在にあっては、エラーが起こり続け、常にそのものの存在意義が問われ続けているようなことの連続ではないだろうか(しかしそれにいちいち目を向ける暇がないほど「駆り立て」られているといえばそうかもしれない)。
僕たちはエラーこそがデフォルトであるような世界を生きている。
(※だからこそ僕たちは東浩紀の「訂正可能性」「訂正する力」という概念に魅力を感じているのではないだろうか。)

3.本来性/非本来性の再考

前節の疑問を踏まえて、『存在と時間』における「本来性/非本来性」ということについて考えてみたい。
『ハイデガー事典』の本来性の項にはこのようにある。

『存在と時間』において、現存在は、おのれを理解しつつ実存するに当たって、おのれにもっとも固有な存在しうることから理解しているのか、「世界」や他者たちのほうから理解しているのか、いずれかの様態をとるとされる。第一の場合が本来性、第二のそれが非本来性である。

ハイデガー・フォーラム編『ハイデガー事典』p.435「本来性 Eigentlichkeit」より

なかなか難しい言い回しであるが、存在(あり方)の様態としてその固有性、そのもののそのものらしさから理解できている状態が「本来性」と言われている訳である。逆に、他者の側からそのあり方を理解しているとしたらそれは「非本来性」である。
しかし前節のように、僕たちのデフォルトがエラーだらけであるとするならば、そのものの固有性の理解というものが常に間違っている(訂正される)可能性があるということだ。だとしたら、本来性/非本来性という線引きは実に曖昧なものとなっていくのではないだろうか。
これは後期ハイデガーの「放下」に対しても同じようなことが言えるのではないだろうか。「駆り立て-組織(Gestell)」とハイデガーが呼ぶところのものをすべて「資材」とみなして動員するような体制に対して、「ものへの放下」によってそのものの世界(『四方界』という用語がある)における別のあり方が見出せるというのである。確かにここでは本来性/非本来性というような対立軸によって区分されるようなものではない。「放下」によってそのもの固有の別のあり方、本来的なあり方を顕すのだとしても、ハイデガーが存在そのものへのアクセス回路というものを示してくれているかというとそうではないように思われるのである(「放下する平静さ」で待つことしかできない)。
だからこそ、僕たちはハイデガーの「道」を追いかけていかなければならない(いや、全く別の道を歩んでもそれはそれでいいのだが)。そしてできることならハイデガーを越えて存在へのアクセスに一歩でも、ほんの少しでも近づくことができないか、思索を続けていきたいと思うのだ。

4.「時‐空間」を一望することの難しさ

存在は「時‐空間」でもある。
存在者がそれをもって顕れ、同時にその顕れの場所でもある。
しかし、ハイデガーが究極の可能性として現存在の死の分析を行ったように、彼の言う時間性(Zeitlichkeit)とは「今」の連続としての通俗的な時間とは異なり、過去(既在)と未来(将来)から時熟する現在と言われるように、現在において過去と未来とが混交するような時間である。
人間において、その誕生から死までがその現在において存在=「時‐空間」において顕れているというのが「現存在」なのである。
だからこそ、中期と言われる時代区分におけるハイデガーは「時-空間」を存在者全体(≒自然ピュシス)として捉えようとしていた。それは謂わば、過去から未来まですべてを包含するような存在者の総体のようなものになる(※余談だが僕はかつてこの全体性をオープンワールドの3Dゲーム空間、つまりゲームキャラクターが移動可能な全時空間として考察しようと考えたことがある)。
問題は有限な人間がそんな総体である存在にアクセス可能か否かということである。
存在者と共に顕れる「時‐空間」としての存在は、その存在者のあり方によって様々に示される。その全体を見通すことができるとすれば、それは「時‐空間」の外側に出ることができなければならない。しかし、僕たちは常に顕れる存在者と共にその「時‐空間」の中にいる。であればこそその存在者の固有性を捉えそこなうことも多々ある。「時‐空間」全体を見ていればその存在者の固有の本来性を見損なうこともないだろうが、そのようにはなっていないのだ。だから僕たちの世界はエラーが常態であり、常にそれを訂正しながら進んでいくしかないのである。
エラーが常態である以上、「時‐空間」の全体を捉えきることができるだろうか。僕たちにとっては、その場面、その都度においてそのものの固有性をほんのちょっとだけ見定められるかどうかが関の山だ。僕たちから見ると、「時‐空間」全体は訂正の上に訂正を積み重ねてきたツギハギだらけのものにしか見えないのだ。
僕たちが存在について考えるということは、そんなツギハギだらけの「時‐空間」について考えるということなのではないだろうか。そして、それは、ハイデガーが辿った道の困難さと重なり、僕たちにとって非常に難しいことなのではないだろうか。

5.ハイデガーとは別の仕方で

さて、ここまで轟孝夫『ハイデガーの哲学』の力を借りながら難解と言われるハイデガー哲学とそれへの僕なりの挑戦を記してきた訳だが、文句ばかり言っているけれどじゃあお前はどうしろと言うんだと言われてしまいそうなので、少しだけ僕の考えを書いていってみたい。
今のところ僕の基本的な考え方のまとめとして書いたものがこれである。

これにも書いたことだが、僕は世界がズレながら(ここでの言葉でいうとエラーが常態で)あると考えている。だから、その全体性を考えるということであれば、そのズレをズレのまま重ね合わせていくしかない。しかし、どうやったらズレているものを重ね合わせることができるのだろうか。
ハイデガーは『存在と時間』でそれを「現存在」つまり「現」という時間性から考究した。
しかし、それだけでは足りないのだ。
今という時間だけでなく、私という人称がないとズレた「時‐空間」は重ねることができないのである(※これはもちろん永井均の〈私〉の哲学から示唆を得ている)。
時間に対しては普通「空間」が対置されるのだが(だから「時‐空間」という言葉が使われる)、「現」つまり今に対比される「ここ」を示すために必要なのは私なのだ。僕たちはこの今の現在性と私の実存性を重ね合わせることによって「現実」を見出している。僕たちが現実を現実だとわかるのは、今と私があることによって、なのである。
その今と私による現実を中心として、様々なエラーをズレたまま重ね合わせていくように世界は構成されている。
「将来から既在する現在」というような時熟をハイデガーは語ったが、実はそれだけではなく、「他者とあなたと私」のような人称の熟成のようなものも考えなければならない。
それで存在=「時‐空間」の全体性が捉えきれるという訳ではないが、少なくとも存在をフォルク(民族的共同体)や歴史と切り離すことのできないものと考えていたハイデガーとは別の軸を設定することができるのではないか。
もちろんこれはレヴィナスなどの他者性の議論と重なっていく訳だが、時間性の議論と人称性の議論は一つの現実性の両軸としてどちらも視野に入れていかなければならないように僕は思っている。


10年前、ハイデガーを没頭して読んだ自分へ、これが今の僕なりの応答である。

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