世界観と僕たちの世界について

1.データベース世界観の問題点

先月は昔書いた「独我論批判」をそのままnoteに写しておいた。
その中で僕は「データベース世界観」なるものを提示している。あくまで独我論を批判するために一つのあり得る世界観として書いてみたものであるが、これには独我論側から反論可能な欠陥があるように思っている。そして、その欠陥が、それら世界観の同じ根っこを示しているように思えるのだ。
今回は、その根っこに少しでも近づくことを目指してみたい。それが哲学というものが二千数百年の昔から語り続けてきたことの一端を示しているのではないかと思われるからだ。

我ながら随分と大風呂敷を広げた感があるが、早速「データベース世界観」の問題点について考えていきたいと思う。
データベース世界観は独我論批判の文脈で書いたこともあって、私の世界と他者の世界が最初っからデータベースという一つの全体において重なり合うように作られている。
データベースは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の論理空間のように、可能性の全体としてある。そもそもウィトゲンシュタインのそれを意識して描かれている。しかし、データベースという言い方をしているのは、その可能性の中に意味を成していないように見えるゴミのような雑多なものまで含まれていると考えたからだ。まさにそこはカオスである。
だから、そのカオスなデータベースそれ自体というものが如何にあるのか、ということはデータベース世界観の内部においては語られない。データベースがどのような広がりを持っているか、僕たちには想像することすらできない。
その意味では、独我論的世界観が「私」の存在を神に賭けることによってしか成り立たないのと同じように、「データベース」の全体性というものは人間の有限性をはるかに超えた超越的なものということになってしまう。
世界観というものは、このような超越的設定なしにはあり得ないのではないか。何かを賭けることなしに、世界というものを語ることはできない。独我論が「私」に賭けたのと同じように、データベース世界観は「データベース」の無限の可能性に賭けたのに過ぎないのだ。だから前回の独我論批判にあっては、「独我論が間違っている」という話ではなく他の世界観も語り得るのだから、「私」という大切なものを賭けることなどないのだ、という批判の形になっている。結局の所データベース世界観も独我論世界観もやってることは一緒じゃないか、だったらどっちでもいいじゃないか、と独我論者は言いたくなるだろう。

2.世界観の入れ子構造

このように、僕たちの世界観は「神様」や「私」や「データベース」という一点に賭けることによって成り立つ。(これらは何となく各々「宗教」「文学」「科学」に対応しているような気がする。)そしてこれらは賭けているものがそれぞれ違うので、互いからは互いが全く違うことを言っているように見えるのだ。
話がややこしくなるのは、これら世界観は各々の内部でも異説を持つ。個々の宗教は各々信仰の対象ややり方が異なっているため対立している。「神様」に賭けている世界観を持っていたとしても、他の「神様」を信仰しそこに賭けている世界観を共有できるという訳ではないのだ。その上、「神様」に賭けることの出来ない世界観とはさらに決定的な分断がある。
このように賭ける一点からの世界観というのは入れ子構造になっており、僕たちはシンプルに一つの世界観に基いて生きているとは限らない。どこかで相対立するような世界観を渡り歩いて生きているような場合の方が「普通」のことなのだ。

この入れ子構造と渡り歩きは一体何故生じるのだろうか。
それは、僕たちが物事を知ったり、考えたり、言葉にしたりするということの根っこに、ヘンテコな重なり合いがあるからではないだろうか。

カントが言ったように、僕たちが物事を知るとき(=認識)、僕たちはその物事を空間と時間という形式の中に配置している。
また、ハイデガーはその空間と時間という形式が、時間性(Zeitlichkeit)という時間において統一できるという構想を描いている(『存在と時間』)。
しかし、ハイデガーのその構想は上手くいかなかった。『存在と時間』は最後まで書かれることはなかった(※この中断が実際の所どういうものだったのか、は専門家が色々考えたりしてるのでそれはそれで面白いがここでは僕の考える文脈でだけ考えていく)。
僕の考えでは、僕たちの認識の根本にある空間と時間には決定的な矛盾があり、それが世界観の入れ子構造とそれを渡り歩くということの元になっている。
空間と時間という認識の構造は、それぞれ「私」と「今」という原点を設定することによって成り立つ。そしてその「私」と「今」は、たった一つの「現実」というものの二つの側面なのだ。だとすれば、それは各々の原点に賭けた世界観であるはずだが、しかし、僕たちはそれを重ね合わせることでしか「現実」という一つのものを知る(=認識する)ことができないのだ。僕たちが何かを知るということには、根本的な矛盾がある。
しかも、「私」や「今」という原点を言葉にした瞬間に、それが「たった一つの『現実』」を示しているという特殊な力は失われる。「私」はどの私にとっても私であり、「今」はどの今をとっても今である。
僕たちが物事を考えるときには、言葉というものが強く作用している。言葉のもつ意味には、このようなズレが含まれている。話し手がどんな意図をもって言葉を発したとしても、それは一旦「どの○○も○○である」という公共的な概念として受け取られざるを得ない。でなければ、僕たちが言葉で意味を伝えるということそのものが意味をなさなくなってしまう。しかしそれは言葉がしっかりと話し手の意図を表現しているということを否定することでもある。
物事を知ったり考えたり言葉にしたりするとき、僕たちはこれらの矛盾と無縁ではいられない。そしてこの矛盾はその内部に深く浸透しており、どこにおいてもそれが見られるような入れ子構造を成している。

3.認識の形式としての時空間と「たった一つの現実」

しかし僕たちはちゃんと物事を知っているし言葉も使っている。
「空間と時間」などの矛盾は意識されることなく物事を知ることはできる。
まるで自転車の仕組みは知らなくても自転車に乗ることはできるように(まぁ自転車の構造に矛盾があったら自転車壊れちゃうかもしれないけど…という意味ではどこまでもメタな話でしかないのだが)。
だから、世界観同士が対立し合っていたとしても、時と場合によってそれを渡り歩いて生きていくことができる。そもそも僕たちは普通にそうやって生きている。
じゃあ、上手いこと世界観を好き勝手に渡り歩いてその場その場に合わせていけばいいか、というと、そうでもない。いや、本当にそうできるのであれば、皆がそうやって生きていくことが幸せかもしれないが、僕たちはそうすることができない。それは、僕たちがどうしようもなく「たった一つの現実」に縛られているからだ。
「たった一つの現実」は、僕たちが物事を知るための「時間=今」と「空間=私」という形式の外側にある(だからこれを幻想だと言う人もいる)。
でも、その形式が生じた瞬間に、「たった一つの現実」はそれがず~~っと以前からそこにあり、ず~~っと先までそこにあるかのような顔をして姿を現す。
そしてそのことが、僕がある世界観から別の世界観へジャンプしたとしても僕が僕のままであることを可能にしている。「たった一つの現実」と「時間+空間=時空間」というこの形が、世界観を作りながらそれを渡り歩くことを繰り返しつつ、さらにそれが入れ子構造となっているという僕たちのあり様を表している。これは、僕の考えでは、かなり根本的な僕たちのあり様を示している。

4.「ズレながら重なる」

この世界観の入れ子構造と渡り歩きのことを僕は✕tter(ペケッター旧Twitter)で「ズレながら重なる」という表現で言い続けてきた。これは僕がマルクスガブリエル『世界は存在しない』の意味の場の哲学を読んだときに感じた違和感を表現しようとして考えてきたことだ(その本では、ごくごく簡単に言えば、世界という全体があるのではなく、そのときその都度意味を生じさせるような場=意味の場があるだけなのだという話がされている)。僕はそのとき、意味の場と意味の場の間、その相互の往来についてどうなっているのか、そのことが分からなかった。一つの世界観としての意味の場が生成されたとき、他の意味の場はどうなっているのか。いろんな意味の場が実は重なり合っている(このことはマルガブも言及している)。何ならそこではまだ気が付かれていないような意味の場すらそこに重なっている(だからカオスとしてのデータベース(=存在の神秘)があるという話が可能にもなるが)。マルクスガブリエルが言う世界とは、ウィトゲンシュタインが『論考』で言及したような、まだ見ぬ可能性も含んだすべての意味の場を重ね合わせた全体である。
それが「存在しない」というのは、全知全能の神は存在しないとか、人間の有限性のこととかと同じように、キリスト教徒でもない僕には正直どうでもいい話だ。しかし、だからこそデータベース世界観ではデータベースを「意味を持ち得るような可能性の総体=論考ワールド」としてではなく、「今は意味をなさなくても今後意味を生じさせるようなありとあらゆるもの=カオス」として描いている。
これは勿論、ウィトゲンシュタインの『論考』から言語ゲームへの「転回」を意識している。言語ゲームというのは、僕の考えでは、意味が生成してくる場面を描いている。カオスから、エラーや他者を通じて、意味が一つの形を成すようになる場面を描いたのが言語ゲームだ。これは、一つの意味の場が姿を現す場面といってもいい(と僕は思う)。
しかし、意味の場も言語ゲームも、その場から次の場へ、そのゲームから次のゲームへの移り変わりについてはあまり多くのことを教えてくれない(マルクスガブリエルは現在進行形の哲学者であるし僕は日本語文献しか読めないのですべての仕事を追えないし、ウィトゲンシュタインは自分も気付かないうちに家族的類似しているゲームを渡り歩いているという東浩紀のような読解は可能かもしれない)。僕たちが意味に出会う所では、もうすでに場やゲームが多層をもって重なり合っている、という所から出発して、なぜそれが可能なのか、という僕の違和感は残り続けたのだ。

5.「ズレながら重なる」世界のあり様

そこへの一つの答えを求めて考えているのが「たった一つの現実」と「時空間」の関係(これは存在論と認識論の関係とも言える)、渡り歩きと入れ子構造、さらに言えば、バラバラの(カオスな)意味の場を渡り歩くのは「誰」なのか、入れ子構造を成すような世界がどのようになっているのか、ということなのである。
この「ズレながら重なる」世界は、僕(渡り歩くもの)側から見るとまるで沢山のウィンドウを開いているパソコンのデスクトップのように見える(東浩紀が『観光客の哲学増補版』の補遺第9章「触視的平面」の言葉で説明しているタッチパットやインターフェイスの議論と近い)。その奥にあるであろうデータベース(ネットの海)の全体など知る由もないが、それでもこちらが入力したことにリアクションが返ってくることでその広範なデータベースを想像してしまう。ウィトゲンシュタインの論考ワールドのように、可能なものの全てがデータベースとして僕たちが見ているデスクトップ画面の奥に存在しているかのようだ。
では反対に「ズレながら重なる」世界の側はどうなっているのか。デスクトップの奥にはその全体があるのだろうか。実はバラバラなデータベース的離島が点在しているだけだ。(それすらない、というのが言語ゲーム論の面白い所ではあるが、それでは僕たちに認識可能な「言語」的なものしか世界に存在しないことになりはしないか。しかし、ChatGPTなんかのAIが、データベースではなく言葉や図像の家族的類似性だけでもって「何となく」会話や描画が可能であることを考えるとウィトゲンシュタインの方が正しいのかもしれない…これは今後の課題。)僕の側ではインターフェイスへの入力がどの離島へアクセスするかを指示する。しかし、世界の側でも離島同士は関わり合っている。離島と離島とは僕とは全く関わり合いなく重なっている。だからこそウィンドウとウィンドウは別なものとして重ね合わせて表示できる。
バラバラな離島が一つのデスクトップ上に表示されるのは僕がそう表示されるようにしたからである。そのことは、世界が僕のものであるという意味で独我論的である。一方で世界の離島(一つ一つの意味の場、と言ってもよい)はそれぞれ勝手に重なり合っている。それは僕がいるといないとに関わりはない。離島はデータベース的である。しかも、その離島の重なり合いは変幻自在である。どの重なり合いがそこでデスクトップに表示されることになるのか、は偶然がある(検索した時に何が表示されるのか、僕たちにはコントロールできない)。その離島の重なり合いは、カオス的である。

6.世界が現れる「時」

しかしこの話は、独我論的なデスクトップにせよデータベース的な離島にせよそれらの重なり合いのカオスにせよ、とにもかくにも僕たちが何かを見たり聞いたり考えたり、そういうことをした後にしか現れてこない。
パソコンであればそこにデスクトップの画面があるのは当たり前のことだ。しかし僕たちはそのようなインターフェイスを普段は全く意識することなく物事を見たり聞いたり考えたりしている。そんなインターフェイスがあったり、ましてやその向こう側がデータベースやカオスであることなど思い付きもしない。それでも僕たちは見たり聞いたり考えたりすることができてしまうのだ。
自転車の構造を知らなくても自転車には乗れるのだからそれでいいのだ、とは勿論言えるだろう。その場その場で見たり聞いたり考えたりすることはできるのだから、その背後に何があろうと問題はないだろう、と。
しかし、自転車がパンクしたり操作をミスって転んだりするように、僕たちが見たり聞いたり考えたりすることも、エラーを起こす。しかも困ったことに自転車のパンクなんかよりずっと頻繁に。その時にパンクを修理したり転んだときのケガの治療をするように、僕たちはそのエラーに対処する必要がある。だから、僕たちは世界をその時あるがままに見たり聞いたり考えたりするだけでなく、その世界の仕組みとしての世界観を組み立てている。
しかも、一つの世界観でパンクの修理とケガの治療がいっぺんにできるわけでもないので、色々な世界観を渡り歩くことになる。
それでもパンクの修理とケガの治療が、世界観が違うからといって別の世界の出来事な訳ではない。その世界観同士は(僕がいるからつながっているという独我論か世界がデータベースとしてのカオスだからかは分からないままだが)とにかくも「つながっていた」ということに後から気付く。そもそも一つの世界観に没頭している間はそのつながりを意識しない。そこから否応なく違う世界観へと渡り歩かされて初めて、多層をなす世界観同士のつながりというものを意識する。
このつながりは、「後」という時間的要素を孕みながら僕たちに姿を現すのだ。一つの世界観の中で見たり聞いたり考えたりしたことは、時を経ることによって、別の世界観で見られ聞かれ考えられる。そのことによって僕たちは一つの世界観に安住することは出来ず、それらのつながりとしての「たった一つの現実」や「全体としての世界」を意識せずにはいられないのである。

7.「正しさ」の問いへ

僕たちが見たり聞いたり考えたりするとき、そこには依拠している世界観がある。しかし、世界観は僕たちの認識の形式(=時間と空間)に依拠している(でなければ意味をなさない)ので、それが「ズレながら重なる」ものである以上、違う世界観というものが現れる。そうすると、その世界観同士の関係というものが現れ、僕たちは「たった一つの現実」や「全体としての世界」というものと無縁ではいられない。
そのことは同時に、その場その時にどの世界観を適用するのが正解なのか、という「正しさ」の問いが現れてくる、ということである。
しかし、この「正しさ」もまた、世界観と無縁ではない。正しさもまた僕たちの認識(知ること)の一つであるのだから、それが認識の形式に依拠しない訳がない。それを果たして「たった一つの現実」や「全体としての世界」という世界観の外側から規定することができるだろうか。
僕は未だこの問題に答えることはできない。
僕たちは見たり聞いたり考えたりしながら、同時に「正しい」ことを判断することができている。たまに間違えることもあるが、間違えるということは「正しくない」ということがわかるということである。それが僕たちが見たり聞いたり考えたりすることとどう絡み合っているのか、そのことを考えて行きたいと思っている。
僕たちは世界観に縛られながら「正しさ」についてどう考えることができるのか。ヒントは世界観相互の関係、あるいはその全体が「遅れて」やってくることなのかもしれない、と今は思っている。しかし、それが「たった一つの現実」であるから「正しい」という訳ではないだろう。では…?

なかなか先は長い。

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