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前に書いた「独我論批判」

以前、読書ノートみたいなものとしていくつか文章を書いていた。そのうちの一つをnoteに記しておきたいと思う。
というのも、今考えていることを一旦まとめてみたいと思ったのだが、その前段階として以前書いたこれが基盤になるかもしれないと思えたからだ。

以下、このファイルの文章である。

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独我論批判~私が読んだもの達へ 其の三

2016年 6 月
平塚正法

「世界って何だ?」という問いは哲学の大きなトピックの一つだが、勿論そうそう簡単に答えが出る訳もない。ここでは、その流れの一つである「独我論」を考えてみたい。
 観念論を揶揄する際に使われるような「独我論」という言葉だが、著者自身は観念論は全て捨て去られるべきもの とは考えていない 。だが、以下の考察において俎上に上がっている「独我論」については基本的には批判的に考えられるべきだというスタンスであり、それをこれから見ていきたいと思う。

1. 独我論とは

 まずは「独我論」とは何か、ということだが、今や当然の如くに引かれるようになった ウィキペディアから見てみよう。

独我論(どくがろん 英: solipsism ソリプシズム)は、哲学における認識論の見方の一つで、自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけであり、それ以外のあらゆるものの存在やそれに関する知識・認識は信用できない、とする。独在論、唯我論とも。ラテン語の solus と ipse の合成語で、英語だと前者は alone 「~だけ」、後者は self himse lf,herself,itself など、「自身」;「彼、彼女、それ自身」を意味する。

ウィキペディア「独我論」より

 簡単にいうとしたら、「私が認識できるものが世界の全てである」ということだ(ここからチャーマーズの「哲学的ゾンビ」の思考実験や SF でよくあるアンドロイドと心の問題などが派生していくことになるのだろうが、ここでは深入りはしない。余談だが、最近(←著者名)『アリス・イン・カレイドスピア』という 小説も面白かった)。独我論にも色々とバリエーションがあるが、ここでは永井均の言う「認識論的独我論」について考察を進めていくということにしたい。
 永井は、「認識論的独我論」を以下のように説明する。

認識論的な独我論とは、ある 一つの心(もしそういうものがあるとすれば)にとって、その外部にあるものの存在は(他の心の存在もふくめて)認識できない、とする一般論

永井 均『〈子ども〉のための哲学』より

 これは所謂「一般論」であって、これを書いている「私=平塚」にとっても「あなた」にとっても、私の友人のAさんにとっても、我が家の子どもにっても、成り立つ話である。もし、世界にいる全ての人たちについて成り立つ話なのであれば、「独我論的世界」は困難となる。所謂「他我問題」だが、ひとまずそれは置いておくことにして、先に「認識論的独我論」による「独我論的世界」がどのように構成されるのか、をもう少し詳しく見てみることにしよう。

2.「独我論的世界」

 世界には、「私」が「あると認識しているもの」が、ある。即ち、目に見えている、耳で聴こえている、手で触れているものは、世界にある。 昨日見たものの記憶、中継でテレビに映し出されているもの、目で見えてはいないが息づかいを感じる後ろの席の人も勿論世界にある(いる)と考える。
普通に(「独我論的世界」を採用するか否かに関わらず)私たちが「ある」と思っているものの大半は世界にはあり、しかしながら、「私」の認識能力をフルに活用しても尚認識できないものに関しては、世界の外部として「分からない」こと(あるともないとも言えない)とする。
では、「私」はどうだろうか?
「私」は、「私」の身体や「私」の感覚があることを認識しているので、それらは世界にある。では、それを認識している「私」は、「私」が認識できるだろうか?
 ここが「独我論的世界」の成立の 難関である。
 果たして、認識する「私」は、どこにあるのだろうか?見ること、聴くこと、触れること、感じることはできるだろうか? 「私」が認識する世界の中に「私」がいる(ある)のだが、ここで、「私」は「認識する私」と「世界にいる私」に分裂する。所謂「心身二元論」である。(また余談だが、デカルトが「私」の存在を疑い得ないものとしたことと表裏の関係で、フッサールは見るもの、聴くもの、触れるもの、感じるものとしての「現象」 を存
在する ものとして考えた)。 「独我論的世界」を構成する「私」は、身体をもつ「世界にいる私」ではなく、「認識する私=視点/基点としての私」だ。
 では、この「視点/基点としての私」はどのように成立し得るだろうか?
 ここで先程の「他我問題」が現れてくるわけだが、「私」自身に「視点/基点としての私」は認識できないが、他の人たちにそれを認めてもらうことによって「視点/基点としての私」が成立するとは考えられないだろうか。
 これは難しい。
 これが何故 難しいかというと、「視点/基点としての私」を他の人たちの承認によって成り立たせる(=私の世界内で私以外の人たちが「視点/基点としての私」を認識しているのだから、それは存在す る)とすると、他の人たちも「私」と同じように「視点/基点としての私」を持つことを認めざるを得なくなる。正に、それは一般論となる、ということだ。
 一般論化した独我論は、世界の唯一性を失う。〈私の世界〉と〈あなたの世界〉が、同じ土俵にあることを認めることになるのだ。私が認識しているものと、他の人たちが認識しているものがあり、 もしそれらの同一性を保とうとするなら(私とあなたは 同じものを見ている)、各々の認識を調整する議論が必要となる 。そして、そのように世界の同一性を保っていくのであれば、それは〈私の世界〉ではな く〈我々の世界〉であって、既に「独我論」ではない(実在論的世界観と何ら変わらない)。もし同一性を放棄するなら、「私」と「あなた」で視える世界が全く違うという可能性を否定できないのだから、普通の生活を営むことすら困難になるだろう。
では、他の人たちに頼らないで「視点/基点としての私」を成り立たせるには、どうしたらよいだろうか?

3. 超越的承認者

 世界の内に「視点/基点としての私」を承認する他者を設定すると、世界は唯一性を失うこととなり、 「独我論的世界」を維持することが出来ない(または、する必要がない)。では 、どうすれば「視点/基点としての私」を成り立たせることが出来るだろうか?
 世界内にそれを求めることが不可能なのだから、それを外に求めるしかない。
 世界の外部に謂わば 超越的(スーパー)承認者として「視点/基点としての私」を認めてくれるものを召喚すれば良い―――「神」だ。
(実は名前は何でもいいのだが、イメージしやすいものとして「神」と
名付けることにする。)
「神」は世界内の存在ではなく、 外部のものだから、認識することは不可能であり、いる(ある)ともいない(ない)とも言えない。世界内の存在者にとって、「神」は不可知である。だとすば、「神」の 非存在は証明できないではないか(勿論、存在も証明出来ない)。そのような「神」が他者として承認してくれることによって、「視点/基点としての私」はある。であれば、世界内の他の人たちの「視点/基点」(他我)は無視して、〈私の世界〉を構成することが出来る。他我が何故無視出来るかと言えば、「私」が認識する以外の他の人たちの認識は、世界内には無いからだ。
「神」を唯一の根拠として、「独我論的世界」は成立するのだ。正に、「世界は私の為に神が創りたもうた唯一の舞台」なのである。

 こうして、「独我論的世界」は、超越的承認者としての「神」を想定することによって成立する。「神」は世界の外部であって、世界内の我々にはその存在を云々することは出来ない。〈私の世界〉は揺るぎない完成を見る……
 いささかアクロバティックではあるが、「神」の存在をベースにした世界観がそれだけで否定される訳ではないので、「神 」が 胡散臭いもの である ことを批判するのであればお門違いだろう。 ただ、もう少し考えを進めてみたい。勿論、考えることは「神」についてであるが、「神」の存在/非存在証明をどうにかしようというのではない。非キリスト教圏、非一神教の世界に生まれ育ったものが、その証明競争に参戦しようなどとはおこがましくて
できない。
「神」が唯一絶対の超越的(スーパー)承認者として設定されていることが、いったいどういう意味を持つのか、をよく考えてみたいのだ。

 その準備として、寄り道になるが、著者が今考えている世界観―――「データベース的世界 」についての説明にお付き合い願いたい。

4.「データベース的世界」

 この世界観において、 人はハードデータとしての個体であり、人がデータベースにアクセス(世界への入場)することによって混沌としたデータベース全体に意味という名の秩序がもたらされ、現在として の 世界が現れる。 「私」自身もデータベースの中の一つのデータの集積であり、その意味で「私」も他の人たちも等価だ。 ちなみに、他の個体も同じデータベースにアクセスしているが、個体ごとの性能差やインターフェースの違いによって現れる世界は違って見える可能性がある。だが、受け取る印象の違いはあっても、 そもそも同じデータについてを感知しているのだし、 ヒトという種の性能やインターフェースに(他種との違い程)大きな違いが無いのだから、それをどう互いに調整するか、という問題が残るだけだ。
 個体としての人(ハードデータとしての個体)は、データベース(世界の底/混沌)全てにアクセスすることが出来るかどうか分からない。アクセスは開かれているが、全てにアクセスすることは、そもそも生きていく上で必要性はなく、それが「私=ハードデータ」の記憶容量に見合っているかどうか分からない(直感的に、インターネット につながる個別の端末をイメージすることができよう)。もし、テクノロジーの進展でハードデータ個体がデータベース全体を自らの内に取り込むことは、実に非効率的だと言わざるを得ない。外部化して、必要に応じてアクセスできるように確保しておけばいいのだから。
 そして、データベースは常に 更新(アップデート)され続けているが、個体はデータベースへのアクセスによって現在としての世界を取り込むことによってアップデートデータ をインストール(内部化)する。過去の出来事はデータベースに蓄積されており、時には他の出来事や世界に影響を及ぼす。現在も常に「私」や他の人たちによって書き換えられ続けている。 それを知らないとすれば、それは「私」がアップデートしていないということだ。(これは余談になるが、このモデルにおいて「未来」は、混沌としてのデータベースから予期され得る全ての可能性と考え、予期は「私」にとっては「現在」の世界に属する事柄だ。究極的には、データベース内の何がどのように「我々の世界」に影響を及ぼすか、データベース内の全てを取り込まなければ分からないので、「私」が「未来」を予測することは不可能だと考える。)
 そしてこのモデルにおいて 「私」の 「間違い」はどのように起こるか?
 まず本来アクセスするべき所とは違った所へアクセスしてしまった場合、そして正しい所へアクセスしたのだがアップデートデータが「私」に適合しない場合、あるいは他の人たちのデータベース更新が影響してそれが「私」に何らかの「ノイズ」として機能する場合が考えられるだろう。
 このように世界を考えたとき、一見、人の無力さが際立つような気がする。我々が世界へアクセスし、デー タベースのほんの一部を書き換えたとしても、「世界」には(無視出来るほどしか)影響を与えられないではないか。 SNS やブログを書いたところで、インターネット全体から見れば、塵みたいなものだ……。
 しかし、 〈 「私」の 「 世界 」〉もまた、データベース全体(そんなものが想定できるならば、だが)から見れば、ほんの小さなものに過ぎない。それに、 現に我々は共に同じものを感じ、互いに影響し合い、少しずつではあるが、 世界と自分を書き換え続けている。そして、それは、「あなた」を、「彼」を、「彼女」を、「それ」を、データベースを通じて少しずつ書き換えていることに他ならない。「私」の 入場(アクセス)は、 ほんの僅かかもしれないけれども、「世界」と、そこに共に入場(アクセス)する他の人たちへと、通じているのだ。確かに書き換えは僅かずつしか進まない。「データベース的世界」が教えるのは、世界を変える営みは、一歩一歩しか進まないということだ(大作のゲームのプログラムの第一歩が、ほんの僅かの文字列であることと同じだ)。そして、それでも尚、「私」も「あなた」も「世界」も、着実に「変わっているのだ」ということだ。

5. 独我論を越えて

 寄り道をして「データベース的世界」についての説明にお付き合いいただいた訳だが、別にこれが目新しいものだとか、完璧に世界を表しているとかというつもりで出してきた訳ではない(自分なりに世界を説明しようと考えていて、今の所説得力のあるものとして考えているということに過ぎない)。
 では、何故ここでそんなものを提示したかというと、(つたないながらも考えた世界観を文章化したかったというのは勿論あるが) なんとなく世界を説明できそうな「世界観」は、「独我論的世界」の他にもあるのだということを示したかったからだ(「データベース的世界」に納得いかない方は別の「独我論的世界」以外の世界の説明を念頭に置いて下さるようお願いするしかない)。
 何故、わざわざそれを示す必要があるのか?
 そのことによって、「『独我論的世界』は完成されている。よって、神は存在しなければおかしい」という形式の神の存在証明を反駁するためだ。
この形式は、「独我論的世界」を採用すれば、という前提に基づいている。いくらその個人の実感に一致し ているかは分からないが、世界は「独我論的」にはない、という前提を持つ人たちにとって 、未だ神の存在は証明されてなどいない。よって、これは「独我論的世界」を採用する人が、「私」と「私の世界」において神を認める、という宣言でしかないのであり、他の人たちがその神を受け入れる必要はない。
 他の人たちが神を認めないならば、それだけで「私の世界」は危機に陥る。神は、唯一絶対の「視点/基点としての私」の承認者なのだ。それが否定されるという事態は、「私の世界」においてはあってはならないことであり、世界の整合性を保つためには、 神の否定という事態に対して辻褄を合わせるように世界の修正が行われなければならないということだ。曰く、「私が摑んだ世界の真実を、まだ彼は知らないのだ」と。
 こうした世界の辻褄合わせが、「私の世界」を歪んだものにしてしまう可能性を孕んでいることは言うまでもないだろう。

 世界観の構築に際しては、複雑そのものといっていい「世界」をモデル化するのだから、単純化するか、複雑さを何らかのシステムに押し付けることとなる(「データベース的世界」においては、「データベース」がそれを押し付けられている)。故に、その押し付けられたシステムの権力性(私/我々への影響力)は強くならざるを得ない。我々の自由は、その世界観によって、自然だったり、データベース だったり、神だったりと、ア・プリオリ に設定されているものに よる制約を受けざるを得ないのだ。
 だからこそ、その権力性の源泉である「複雑さ」を飼い慣らしつつ、ずつその権力性を解体し、我々の自由を拡大していく努力をしていきたいと思うのだ。「不可知」と考えられているもの、語り得ないものがあることは認めても、それが本当に「不可知」かどうかは分からない のだから、我々にとってそれは「未知」なのだ。「 不可知」を放置するのであれば、それこそが思考停止なのだ。
 残念ながら「独我論的世界」は「神」(名前は何でもいいのだが)という想定しうる限り頂点の絶対者を想定せざるを得ない。「神」が世界の外部にいなければ「私」を保証してくれるものはないのであり、世界の外部たり得るのは常に「視点/基点としての私」を越えるものでしか有り得ないのだから。したがって、「神」は想定しうる限りでの最大の権力をもつものとならざるを得ない。それは、「視点/基点としての私」を維持するためだとする
ならば、あまりにも高過ぎる代償ではないだろうか。
 少なくとも、そんなものを想定せずとも「世界」があり、「私」がいることは可能なのだから。
〈了〉

主要参考文献
東浩紀「動物化するポストモダン」講談社現代新書 2001
海猫沢めろん「明日、機械がヒトになる」講談社現代新書 2016
最近「アリス・イン・カレイドスピア」星海社 2015
シェリング(西谷啓治訳)「人間的自由の本質」岩波文庫 1951
戸田山和久「哲学入門」ちくま新書 2014
永井均「〈子ども〉のための哲学」講談社現代新書 1996
中山康雄「時間論の構築」勁草書房 2003
ハイデガー(桑木務訳「存在と時間(上、中、下)」岩波文庫 1960 、 1961 、 1963

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