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孤独について 

早いものでもう2月も半ばである。
先月も書いたことだが前年の末頃から鬱病になった。
だから、なのかどうかは分からないが、最近は孤独についてよく考えていた。分からない、というのは、鬱になる以前から孤独というのは僕のテーマの一つで考えてはいたからではある。しかし、自分でもこの病の体験を通じて少し変化があったように思うし、それはもしかしたら他にも通じるものであるかもしれないと考え、この文章を書いてみようと思っている。

さて、孤独について考えるといってもむやみやたらと考えていってもしょうがないと思い何冊か本を探してみたのだが、そのとき出会ったのが谷川嘉浩『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』である。

90年生まれの哲学者、京芸で講師をされているようである。
正直、この本を読んでいただければもう僕なんかが新たに付け加えて何か書かなければならないとは思えないほど良い本である。アーレントやマーク・フィッシャー、オルテガなど哲学者ばかりではなく、シェリー・タークルなど心理学者、鈴木謙介など社会学者などを縦横無尽に引きつつ、スマホが必ず手元にあって常時接続される時代において、孤独というものについて考える格好の手引きとなる。

哲学的に孤独について考えるとして、まずは孤独というものが何なのか、ということが第一に問題になる。ここでは、谷川がアーレントの『全体主義の起源』を引いて言及している孤独についての考え方を参考にしてみたいと思う。

アーレントは、「一人であること」を三つの様式に分けています。それが、〈孤立(isolation)〉〈孤独(solitude)〉〈寂しさ(loneliness)〉です。

谷川嘉浩『スマホ時代の哲学』p.121

孤立とは他の人とつながりが断たれた状態のこと、孤独とは心静かに自分自身と対話しているように思考している状態のことで、寂しさはいろいろな人に囲まれているはずなのに自分はたった一人だと感じてしまう状態のこと、と説明される。
非常に単純化して言ってしまえば、孤立して孤独に考えることは好ましいが僕たちはどうしても寂しさに囚われてしまいがちだよね、ということになるだろうか。今やスマホが常に手元にあり、これからはウェアラブルデバイスも増えていくであろう状況にある僕たちにとって、孤立状態を保つことがそもそも難しくなるだろう。そうなると孤独に思考を深めていくような体験というのは意識的にやらなければなかなか機会が得られないかもしれない。
しかし、僕たちは常に人とつながる可能性を手元に持ちながら、アーレントの言う寂しさからは逃れることができない。それどころかますます寂しさを募らせてはいないだろうか。
そこで谷川は孤独を取り戻そうという処方箋を描いていく、というのがこの本の大筋(だと僕は読んだ)なのだが、あまりに単純に孤独礼賛をしているという訳でもなく(他の本を読んだ時には「孤独になれ」というただの説教みたいなものもあったので…)過剰につながりを求められる今のこの状況自体を否定するようなことではなく、その中にありつつ孤独を保つ術をどのように考えようという立ち位置で、そこには共感することができた。

僕自身、孤独に思考することが大切だと考えてきた。だからこそ、本を読みつつこんなnoteを書き続けている訳でもある。
しかし、孤独ということを考えるに当たっては、もう一つ別のことを考えなければならないのではないかと最近は思っている。それは、僕たちがなぜ孤立し、孤独になり、寂しさを感じるのか、その大元にあるのが生全体が、存在そのものが決して他と交わることがないという意味での孤独のレイヤーではないか、ということである。それをアーレントの孤独の三様式と区別するために〈独我論的孤独〉とでも呼ぶことにしようか。
つながりすぎたり、つながりが断たれたりできるのは、当たり前のことだが、「私」がいるからである。「私」がつながったりつながらなかったりする。そして、「私」とは、他の誰でもない、この「私」のことである。「私」が見ているこのコップは、まぎれもなく「私」が見ているのであり、他の誰かが「私」の代わりに見ているのではない。「私」が感じる寂しさは「私」が感じているのであり、他の誰かの寂しさではない。なぜだか分からないが、「私」が見たり感じたりすることを、他の誰かが代わりに見たり感じたりすることが決してできない。世界の中にたった一人、実際に・・・見たり感じたりできる「私」がいる。
ここに、決して他と交わることのない〈独我論的孤独〉がある。
そして面白い(?)ことに、どの「私」であっても、この〈独我論的孤独〉を持っている。そうでなければ、そもそもつながったりつながりが断たれたりすることができないはずだ。孤立したり、孤独になったり、寂しくなったりするためには、「私」はこの〈独我論的孤独〉な存在でなければならないのだ。
そして、〈独我論的孤独〉な「私」たちがつながっているという事実があるということは、「世界の中にたった一人実際に・・・見たり感じたりできる「私」」が実は複数存在しているということである。
僕たちの世界というのは、この「たった一人」が「複数存在する」という矛盾した状態が根っこにあって成り立っているのだ。だから、世界が過剰につながっているようにも、あまりに孤独であるようにも見えてしまう。それは仕方のないことなのだ。つながりが過剰でつらいのであればそれを切断する処方箋を、孤独に耐え切れずつらいのであればつながりを見出す処方箋を求めれば良い。ありがたいことに二千数百年もあーでもないこーでもないと考え続けてきた哲学の歴史を紐解けば、両方の処方箋を見つけることができるはずだ。
谷川さんの本も、そんな世界を生きる〈独我論的孤独〉な僕たちの処方箋の一つである。

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