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デリダを読んでいく②~フッサールvsデリダ『声と現象』

今回は『声と現象』である。
フッサールの『論理学研究』や『イデーン』の読解を通じてフッサール現象学の形而上学的原点を探るという内容であり、それ自体がとてもピンポイントで深い議論となっていると思われ、その全部をつまびらかに見ていくことはここではとてもできそうもないので、僕なりにポイントを絞っていくことにしたい。
そのポイントは、〈私〉に関わる部分である。

具体的には、第七章「根源の代補」において〈私〉という言表についての議論がある。フッサールにおいては、他者との会話における指標的な記号の作用を還元しきった「内的独白(独り言)」にあって記号に媒介されない直観に現前するイデア的意味(Bedeutung)が生ける意識と考えられている。しかしデリダは、〈私〉という言表においてはいくら孤独な独白の中でもそこに〈私〉が不在である可能性を含み込まずにそう言表はできないのではないかと指摘する。
もう少し解読していこう。
フッサールにとって、意味は僕たちの志向性に伴っている。僕たちはモノを見るときただそのモノを見ているのではなく、そのものを「○○である」ものとして見ているのである。目の前にコップがある。僕がそのコップを見るとき、それをただのモノとしてではなく、「コップである」モノとして見ているという訳だ。ただ、その「コップである」というのはたまたま僕がそれを何故か勘違いしてコップだと思ってしまっている可能性がある。そこでフッサールは他との関係性(先ほど記号の指標的作用と言ったもの)を還元、つまり差し引いていくことによって、純粋にそのモノの「そのもの性=本質」を捉えようとする訳である(フッサールにとって「超越論的」という言葉はそういった純粋さの表現であるように僕は思う)。だからこそ純粋な「内的独白」において生ける意識(超越論的意識)によるイデア的意味と出会うのだ。
しかし、とここでデリダはチャチャを入れる。〈私〉というモノの本質を考えるとき、それはそもそも「内的独白」をする側、独り言を言う主体のことではないのか。もっと言うと(デリダはこういう言い方はしていない気もするが)、〈私〉とは生ける意識(超越論的意識)という場所そのもののことではないのか。
すると僕たちはその超越論的意識というものそのものの本質について考えなければならない。しかし、ありとあらゆるイデア的意味が生じる場所である生きた意識としての超越論的意識にどんな本質があるというのだろうか。そして、そのイデア的意味はどのようにして超越論的意識の上に現れてくるのだろうか。
〈私〉が「〈私〉」と言ったとき、そしてその言表の本質を考えるとしたとき、〈私〉が何者であるかということはその〈私〉の本質とは関係がないのだ。〈私〉が今ここで現に誰であろうと、あるいはどこにいようと実在しようとしなかろうと、さらには生きていようと死んでいようと、〈私〉が「〈私〉」と言う可能性を考えることができてしまう。そのことは〈私〉という言表がもつ(不思議ではあるが)特徴の一つであると言えるのではないだろうか。実はそのことによって、通常の言述がその対象が現に不在な場合においても指標的にイデアのイデア性である意味を保持し続けることができるのである。つまり超越論的意識がどのような形態をとっていようが、イデア的意味は同一性を保つことができるのだ。
であるとするならば、〈私〉に関しても同じことが言えるはずである。〈私〉のイデア性が保持されその意味の同一性を保つのであれば、〈私〉は何者であってもいいはずなのであり、もっと言えばイマココで不在であっても〈私〉は「〈私〉」と言えてしまうはずなのである。

デリダはここから「現前の形而上学」としてのフッサール、および西洋哲学の根源への批判を展開している。
しかし、僕が興味を持つのは〈私〉がどうしてこのような矛盾を引き起こす言葉なのか、ということである。これは『声と現象』におけるデリダの主題とはズレていくことになるかもしれないのだが、僕はどうしてもここで躓いてしまう。いや、デリダのこだわる「現前」ということとつながっているかもしれないとも思う。〈私〉という言葉は超越論的意識としての場所、つまり「現(イマ)前(ココ)」と重なっているのだ。「現前」というとき、「現」は時間の現在としての今を、「前」は空間としての眼前を表している。時間の問題も差延などの言葉と関わり合って面白い議論に進んでいくはずなのだが、ここでは空間としての「前」について考えることにしたい。
繰り返すが、この「前」は空間としての眼前である。そして眼前というのは文字通り目の前のことだが、それは誰の目の前かというと、必ず〈私〉の目の前でなければならないはずである。それは僕たちの超越論的意識における空間認識において、〈私〉という人称の問題が関わっているということを示している。というより、不在でもありうるという〈私〉という言葉のもつ矛盾が超越論的意識=イデア的意味の成立に関して不可欠なのである(勿論、もう一つ〈今〉が必要であろう)。


※これは余談になってしまうのだが、ハイデガーの所為かどうか分からないが、「〈私〉が不在である」みたいなことを考えるときにどうしても「死」の問題のように考えてしまうような気がする。しかし、別に不在というのは死後ということだけではなく、誕生前の長い長い時間も〈私〉は不在なのであって、「〈私〉がある(いる)」という期間だけが非常に稀有な状態なのである。

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