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訂正可能性の民主主義

東浩紀『訂正可能性の哲学』が出版された。
『存在論的郵便的』『動物化するポストモダン』『クォンタム・ファミリーズ』『一般意志2.0』…と色々書いてきた東浩紀の、『観光客の哲学』と共に主著となる(であろう)本である。
僕はこの本を『ゲンロン0』『観光客の哲学増補版』を読みながらとても楽しみにしていた。そして期待を裏切らない、いや、期待以上の面白さを感じながら読んだ。

まず僕なりに内容をざっくりまとめてみようと思う(以下が訂正の必要のない正しい読解だとは思わないが)。
前著『観光客の哲学』で新たな連帯の主体として「観光客」が提示された。否定神学的(=「ない」ことによってそれが「ある」かのように見える)なネグリ-ハートの言うようなマルチチュード的な主体への批判から導かれたのが郵便的主体としての「観光客」である。それは労働者/消費者/政治的人間/文学的人間…といった人間のもつ複数の側面をモザイク状に重ね合わせたような姿で観光に訪れる。例えばデモに参加していたとしても、必ずしもその政治信条を完全には共有できないような形で参加する。
2015年頃、日本中で集団的自衛権に関する問題でSEALDsらが話題になり日本各地でデモが行われた。そこには、普段から政治活動に積極的な人たちとは別のたくさんの人が参加していた。それは、集団的自衛権の行使容認という政治的トピックへの反発(=否定)によって人々が結集したのだ、と思われた。しかし、そうではなく、デモを傍目に見ていた「傍観者」たちと大差ない、たまたま友達に誘われたとか学校や会社の帰り道だったとか些細なきっかけで参加した人たちがいたのだ。
『観光客の哲学』はそんな人たちを政治的主体とするための処方箋であった。
郵便的主体としての、あるいはモザイク的他者としての「観光客」の生まれ、生きていく場所こそが「家族」である。『訂正可能性の哲学』はここから始まる。ここでの「家族」はウィトゲンシュタインやクリプキの言語ゲームとしての場所を指し示す。そして「家族」がそれとして続いていく原理として「訂正可能性」がある。中身を次々と変えていきながらもその同一性を遡行して訂正しながら保つ。訂正を繰り返しながらも気が付いたらずっと一緒だった、そんなあり方として「家族」はあり、そこが「観光客」が生きる場所なのだ。
では「家族」という場所で訂正を繰り返して生きる「観光客」である僕たちにとっての政治、特に民主主義とはいかなるものだろうか。
『一般意志2.0』においてはニコニコ生放送的な(あるいはスクリーン的な)熟議とデータベースの結合が語られていた。公共的な議論と人工知能民主主義のハイブリッドはすでに提示されていた。『一般意志2.0』はそんなハイブリッド民主主義論として読まれてきた。しかし『訂正可能性の哲学』では、その当時からあったはずの「感情的で私的な言葉」の介入というものを強調する。
「観光客」は公的な場所の住人でありつつ私的な部分をそこに持ち込んでいる。「公/私」の間を行ったり来たりしながら揺れ動きつつ閉じたものでありつつ開かれているような「家族」という場所を生きていく。そしてそれが、一気に一般意志につながるのだ。
郵便的主体である「観光客」たちの民主主義とは、熟議的公共性とデータベースによる人工知能民主主義のハイブリッドであるアップデートされた一般意志に対して、「家族」という場所を生きている「観光客」の私的領域をもう一度救い出すのでなければならない。

理性的で公的な言葉ではなく、感情的で私的な言葉こそが、一般意志の暴走を、すなわち「自然」や「公共」や「真実」や「正義」の絶対性を切り崩す。というよりも、それらの絶対性は、むしろその脱構築によってこそ可能になり持続する。

東浩紀『訂正可能性の哲学』p.326

(※民主主義についてもう一つ、ルソーの「小さな社会」やトクヴィルの「喧騒」など、いわば「家族的分散」のトピックがあるのだが、僕の中で今一歩消化しきれてないので別の機会があったら書いてみようと思う。)

以上が僕なりのこの本のまとめである。
さて、ここで思ったのは、『一般意志2.0』が著者の意図を超えて「熟議民主主義∔人工知能民主主義」のハイブリッドとだけ読まれたように、『訂正可能性の哲学』が「訂正が積極的に可能なのだ」とか「実存的な私的領域こそが大事なのだ」というものとしてだけ受け取られるのかもしれないなぁ、ということである。きっとそれも、この本の読み方なのだろうから。
ちょっと考えてみよう。

まず第一に、「訂正可能性」という言葉は、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの考え方から大きな示唆を受けている。そして言語ゲームに関しては本の中でもこのように言われている。

ぼくたちはみなゲームに参加している。けれどもなんのゲームに参加しているのかはわからない。どんな規則に従っているのかもわからない。ただプレイし続けている。

東浩紀『訂正可能性の哲学』p.58

僕たちは気付けばゲームに参加してしまっている。気付けば「家族」に参加してしまっている(親兄弟がいるというようなだけの意味でない念のため)。そして僕たちはそれがどんな「家族」であるのか、実は分からない。
勿論「家族」には、その中にいる人たちにしか分からない部分がある。しかしそれはその「家族」の全体像ではない。なぜならその中にいる人が変わったとしても「家族」は「家族」であるのだから。そのように訂正されながらふんわりと同一の枠組みを結果として共有していくようなものをこそ「家族」と言うのだから。
「家族」の外に「家族」はない(ゲームの外にゲームはない)というとき、ハイデガーが「被投性」という言葉で表現したような、神ならざる人間の有限性みたいなものを僕は感じる。ゆえに「家族」は訂正を繰り返す動的なもの=時間性をもつものと考えられている。
だからその枠組みを「家族」として語るためには共同体=観客を必要とするということをクリプキを援用してこの本が導き出す訳だが、であるとすれば「家族」がどのような「家族」であるかということはコントロール不能(不確実性といわれる)である。だからこそねじれた形で民主主義が導入される、というのがこの本のテーマの一つである(と思う)のだが、それが言語ゲームについての「まっすぐな」理解と共に、熟議的公共性に回収されるような形で読まれざるを得ない(『一般意志2.0』がそうであったように)という側面があるのではないか。
訂正可能性を受動的・中動的あるいは時間遡行的な人間的現実と捉えるのではなく、積極的に未来を変革していくような理念としてだけ捉えられてしまう可能性である。

もう一つ。
この本は民主主義を考えるにあたって、ルソーの『新エロイーズ』やドストエフスキー『地下室の手記』を引きながら私的・文学的領域からのアプローチを強調している。しかも「ビッグデータと「私」の問題」という一章を設けて「私」の固有性を「私に似たものたち」から救い出すことを試みている。
これが何か「新しい実存主義」のようなものとして、ただ「今の私のこのあり方」の無限の肯定として読まれてしまうことはないだろうか。大分下火になってきたとはいえ、巷では「自己肯定感」についていろいろ言われている時代である。私的領域や「私」の固有性の強調が、「今ここのこの私」による主張の単なる後押しとして機能してしまうという可能性はあるように思われる。
この本では民主主義における私的領域の強調は、「熟議民主主義+人工知能民主主義」としてアップデートされた一般意志に対して対置される形でなされている。はてな匿名ダイアリーに投稿された「保育園落ちた日本死ね!!!」(ウィキペディアにこの項目があるのに驚いたが)という記事が賛否両論ありながらも待機児童問題に対して一石を投じたのは記憶に新しいが、このように私的な怨嗟の声であっても何らかの訂正をもたらす可能性はある。
だが、このことは、社会の中にどんどん私的怨嗟を蔓延させればよいということを意味しているのではない。
繰り返しになるが訂正可能性の言語ゲームは「自分が何のゲームに参加しているかはわからない」ようなものである。自分が発した私的怨嗟の声がどのような反応を招き、どのような訂正をもたらすのか、それは誰にも完全にコントロールすることはできない。熟議と人工知能による一般意志の暴走が私的領域からの声によって抑えられなければならないというだけではなく、私的領域から直結した一般意志の暴走は熟議と人工知能によってフィルタリングされなければならないとも言えるのではないだろうか。

どちらの話も本の中ではちゃんとそう単純にならないように書かれている気がする。そもそも郵便的主体である「観光客」の民主主義なのだから、多面性を持つものであるはずである。
でも、この本を読み終わって、「訂正」とか「観光」とか「民主主義」とかについて語ろうと僕たちが思うとき、その多面性をそのままに語ることはとても難しい(少なくとも僕は)。哲学の本は、ある意味でそうやって単純化されて読み継がれていきつつ、その都度訂正されていくようなものなのかもしれない。
『訂正可能性の哲学』はとっても面白いし、しかも読みやすい。
結構複雑な議論がされているように思う所も、するすると読める。
そういう本を読むと僕たちは、自分の読みたいものだけを読んでしまうことが往々にしてある。
「訂正可能性」はそんな僕たちのためにある。

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