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マッキンタイアから動物論再考

暑い・・・

これを書き始めた2023年8月23日、札幌は史上最高気温の36.3℃になったらしい。

それはさておき、先月はハイデガーとデリダの動物論について書いた。

今回はコミュニタリアン/徳倫理学者(となぜか本人は言わないらしいが)のアラスデア・マッキンタイア『依存的な理性的動物』を読んでみてもう一度動物についてを考えてみたいと思う。
ただこの本は、他者への依存がデフォルトであるヒトが、動物と地続きの自らの種の固有性の開花のためのコミュニティの政治的・社会的条件、といったことがテーマとなっているのだが、そこへと具体的に踏み込むことはここではしない。第四章~第八章辺りを中心に、ヒトと動物の違いについて、そのグラデーションについて、に興味をそそられたので、そのことについて考えてみたいと思う。

マッキンタイアはこの第四章で、信念をもつことと言語の関係について考えており、言語を持たない動物には信念を帰することが出来ないとするディヴィドソン、スティック、サールらの議論を批判しながら、信念について前言語的な部分が(どこまで高度な言語能力に依拠しているように見えても)あり続けるのだ、と言っている。
ネコが目の前にいるネズミについて「ネズミとして」信念を持っているかどうかは分からないが、「何かとして」見ているのではないか。それは、ヒトがもつ信念と何が違うのだろうか。
続く第五章ではこの「として構造」を指摘したハイデガーを批判的に検討している。
ハイデガーの「動物は世界が貧しい」というテーゼにはデリダも反応していたわけだが(上述のnote参照)、マッキンタイアはイルカの他者とのコミュニケーション能力などを参照しながら、特にヒトの前言語的な信念形成の動物とのグラデーション的な地続きさに注目しつつ、言語を持つもの/持たないものという線引きに疑問を投げかけている。
では、イルカとヒトとの違いをどう考えればいいのだろうか。
マッキンタイアは第八章でこう言っている。

イルカとは違って、ヒトは、受胎の瞬間から死の瞬間までを貫く自分たちの動物としての自己同一性を理解することもできるし、それを理解することで、自分たちがその人生の過去と未来のさまざまな段階において、他者のケアを必要としてきたことを、また、必要とするであろうことを理解することもできる。

マッキンタイア『依存的な理性的動物』p.111

文脈としてはヒトは徳をもった倫理的行為者たる「実践的推論者」にどうしたらなることが出来るか、という部分なのだが、注目したいのはマッキンタイアがイルカとヒトを区別する指標として「過去と未来」、つまり時間に着目しているということである。

マッキンタイアの本から少し脱線するが、僕たちは普通、言語というものをコミュニケーションツールだ、という風に考えている。他者とのコミュニケーション、世界とのコミュニケーション、そのために僕たちは言語を使っているのだ、と。
そういう意味では、信念をもつ(かもしれない)ネコや仲間たちとかなり高度なコミュニケーションを行うイルカと、ヒトとの線引きを言語をもつかもたないかですることは難しいかもしれない。
しかし、僕たちが使っている言語というツールには別の側面がある。それは、現実を抽象化しデータ化するツール(記号)という側面である。
僕たちは、言語のこの側面を使うことによって、ネコやイルカよりも広範な時空間の把握が可能となっている(と僕は思っている)。言語によって過去の記録や未来予測、遠隔の情報伝達はその個体の範囲を超える。自己同一性の内容(この言い方も不思議なものかもしれないが)も、より複雑なものとなることが出来る。
記憶にもないような幼少のころのケアや、未だ遠い将来の話でしかないような老後のケアのようなことは、ネコやイルカに考えることが出来るだろうか。
マッキンタイアの言うように「過去と未来」を見据えつつ現在の自らの行為について考えることが出来るのがヒトの特徴であるなら、それもまた言語(の記号的な側面)を持つか持たないかで線引きされていると言いうるのではないだろうか。

以前、僕はロボットの心について考えてみた。

ロボットやAIも、ヒトとは区別されるものだと考えられている(と思う)。
今回の議論に引きつけて言うと、ロボットやAIは、言語の記号的な側面しか持たないが故に、心(内面)を主張することが出来ない。AIチャットのように記号の並べ替えのような形でコミュニケーションをすることはできるが、残念ながら「私」を訴えてくるようなロボットやAIは未だ見られない。こちらが何もしていないのに勝手にしゃべってくるAIは今の所いない。
逆に、ネコやイルカについては僕たちは自然と心を持ったものとして考えているのではないだろうか。ネコに信念を帰せられるということは、ネコがその「内面」で何かを考えているのだと僕たちが想定しているということである。
僕たちは、「勝手に何かする」のような自立した何かを「心」として捉えているのだと思われる。そして、「心」を持つか持たないか、でロボットやAIとヒトとの線引きをしているのではないだろうか。
そしてこの線引きはウィトゲンシュタインが言ったように、言語の限界によって示されるという形で、僕たちは捉えているような気がする。言語を持たないネコやイルカの内面は、僕たちは想像することしかできない(このできなさがデヴィドソンら言語を持たないものは信念を持ちえないと主張する立場の基本だろうがそれなら他のヒトの心も僕は想像することしかできないだろう)。

この「ロボットやAIとヒト」の線引きと、「ネコやイルカとヒト」の線引きが各々可能である、ということが、マッキンタイアも言っているようなヒトというものの二重性を示している。
「ネコやイルカとヒト」の線引きは、言語の記号的側面による時空間の個体を超える拡張によるものだと考える。僕たちは未だあるイルカがその所属する社会に不満を持ち、社会変革を志すような例にはお目にかかっていない。
一方で「ロボットやAIとヒト」の線引きは、その内面を想定可能かどうかでなされているように思われる。言語を操るAIチャットが未だヒトと区別されるのは、僕たちが(そしてAI自身も)そのAIに「私」があると考えていないことによる(それでも会話やコミュニケーションが成り立つ、ということは面白い話だと思うが、ここでは深堀りできないゴメンナサイ)。
ここから、ヒトというものが「個々が心のような内面をもちつつコミュニティを形成し、尚且つその個体や所属するコミュニティを超えて考えることが出来る」という特徴を備えているものだと言えそうな気がする。
そして、僕はそれはやっぱり、僕たちがもつ言語、その音声でありかつ記号でありかつ痕跡であるような言語というものと切っても切り離せない特徴だと思うのだが、どうだろうか?

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