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動物について───ハイデガーVSデリダ

もう7月も後半になってしまった。
ウチの子どもたちも来週から夏休みである。
何とか毎月note書こうと思っているので、ちょっと焦り気味・・・

今回は宮崎裕助「ジャック・デリダ」を読んで面白かったのもあり、ハイデガーの有名(?)な動物のテーゼについてである。まずはその三つのテーゼを確認しておこう。

⑴「石は世界がない〔weltlos:世界欠如的である〕」
⑵「動物は世界が貧しい〔weltarm:世界窮乏的である〕
⑶「人間は世界形成的〔weltbildend〕である」

宮崎裕助『ジャック・デリダ 死後の生を与える』p.201より

これはハイデガーの講義録「形而上学の根本諸概念 世界-有限性-孤独」(ハイデガー全集では29/30巻であり、日本語訳本はかなり分厚い)で言及されている。この講義は1929年のもので「存在と時間」が1927年なので、比較的近い時期のものである。
このテーゼで動物は、石と人間の間に置かれている。勿論ハイデガーが動物を(人間と比べて)バカにして言っている訳ではない。人間は他の存在者に対して「~として構造」(花を花として、鳥を鳥として、友を友として、のようにあるものをそのようなものとして関わること)を介してアクセスするのだ、ということであり、それが世界を形作るのだ、というのだ。
それが石のような無機物や動物から人間を区別するものなのだ、という訳である。そう考えると、石が世界を持たなかったり動物が世界が貧しかったりするというのも、人間が世界をそのようにしか見ることができないことによっ石や動物がそのように見えてしまうということなのだ。

デリダは「精神について」において、ハイデガーのこのテーゼにおける「人間中心主義」批判が果たして「人間中心主義」を超えることが出来ているだろうか、と問題提起する。そしてデリダの動物論は、人間が人間である(例えば「~として構造」を持つものである、のような)固有性には、世界窮乏的な動物的な要素を本質として含まずにはいられないのではないか、ということを射程にしているのである。

さて、ハイデガーVSデリダの動物論はこのような議論として考えられるわけだが(僕のまとめは拙いものなのでぜひ本を読んでみて下さい)、ハイデガーを始めとする「人間とは何か」の問いの議論にあっては動物との区別が主題となっている。曰く「人間は動物と違って理性(or言語or道具・・・)をもつ」。
だがちょっと待て。
動物に対する人間(あるいはハイデガーのように無機物/動物との三項関係における人間)という区別の前に、もっと大きな区別を僕たちはスルッと乗り越えているのではないか。
それは、「私/私でないもの」という区別である。
「私」というと言語的な人称のシステムがついて回るので難しい部分もあるが、イマココで世界を見ているのはどこまで行っても「私」であるはずなのだ。「私」が人間であるか動物であるか、その区別の前に、「私/私でないもの」の線引きが(ハイデガーチックに言えば「私」の現存在と存在者一般との線引きが)必要なのではないか。
その線引きがなければ、「私」が動物でありつつ人間であり尚且つただの物質として無機物で構成されてもいるようなものにはなり得ないのではないか。

デリダ的な問いは、この「私/私でないもの」の区別にも亡霊のように回帰してくるだろう。「私中心主義」と「私中心主義批判」の入れ子構造が循環することによって。
でも、その循環は止まる。イマココのこの私によって。
しかし、これでは何も「問題」は解決しない。だから「哲学って役に立たない」って言われるんだよね(^^)
でも、この循環の構造とそれがストップする所を知っておくのは有意義なんだと僕は思っている。そこから問題解決の一歩が始まるのだ、とも。

僕は哲学が大好きである。

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