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「私の不在」問題

先日書いたデリダについての話の余談で、「私の不在」について書いた。今回は補遺としてそのことについて少し書いておこうと思う(今回は短めです)。

僕たちは「私の不在」について、死の問題に引き付けて考えがちである。その代表はハイデガーであろう。ハイデガーは現存在(人間)のあり方を死への先駆的決意性と位置付けた。難しい言い回しだが、その時々の一時のあり方ではなく死へ向かっている全体を人間の生と捉えなければならないと考えて良いと思っている。
事程左様に、不在について考えるとき僕たちは「私の死後」について考えがちである。例えば思考実験においても死後の世界はどうなるのだろうかというような問い方がされるのが多いのではないだろうか。
しかし、誕生以前も私は不在である。
カンタン・メイヤスーは僕たち人間が存在する以前の世界を思考するために「祖先以前的」という言葉を使っていた。要は一旦物理的‐数学的‐実在的世界が成立してさえしまえば、「私たち」という人間を考慮にいれなくとも世界を構想することは難しくないのである。というか、メイヤスーが相関主義批判者であったように、物理的‐数学的‐実在的世界にとって「私たち」なる存在は邪魔者でしかないのである。
そしてその「私たち」は「私」によって構成されているはずである。したがってメイヤスー的な物理的‐数学的‐実在的世界には「私」は存在する必要はない。
しかし、近代哲学の出発点とされるデカルトの議論によれば、「私」の存在は唯一疑い得ない明証性である。すべての延長=実在と考えられているものは方法的に懐疑可能であるが、その懐疑する「私」については(それがどんな存在であるのかは不明であるにせよ)疑うことはできない。デカルト的にはその疑い得ない「私」から始めて、「私」の身体や認識する空間という延長を射程に実在的世界を構想することになる。
しかし、繰り返すが、メイヤスーの言うように、一旦実在的世界(デカルト的延長)が可能になりさえすれば、「私」の存在は必要ない。「私」は不在であっても実在的世界に関しては何の支障もないのである。
実在的世界はこの「私」(「私たち」や人間と言ってもいいかもしれない)の忘却によって成立するのである。裏返して言えば、忘却されているのだからいつだって「私」はその世界に亡霊のように回帰してくる訳である。
このことが、世界や私自身など哲学的なテーマとされることを考えるときにちょっとだけ事をややこしくしているように思う。

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