善について~けう@keuamebablogさんのツイートに寄せて

今回は魅かれたツイート(TwitterはXになったからもうツイートとか言わないのか?まぁどうでもいいけど)について考えてみようと思う。
けうさんの善についてのツイートである。

この一連のツリーな訳だが、善について考えるヒントが色々詰まっているので少し考えてみたいと思ったのだ。

まず最初のツイートから。
ヒロアカの主人公の「自分がどうであれ困っている人を助ける」ことに「善そのもの」を見出す。
(ヒロアカの主人公の「善」は正にフランソワ・ジュリアン『道徳を基礎付ける』の言う所の孟子の善の端緒である。孟子では端緒であってそれを引き延ばしていくという作業が善に到達するには不可欠なものとされている。
僕はこの「端緒」の考え方が好きである。理由は後述。)

次のツイートでは、イデア的善を成すことが出来ないものは悪である、と言われる。そして、善そのもの=イデア的善に対して個々の善という考え方が提示される。
次ではプラトン=イデアに対してアリストテレス=個々の考え方が対比されている。

※アリストテレスの解釈においてはあくまで「個物を離れてイデアがある訳ではない」ということであって、現代的な意味でのように「個々に本質がある」とまで言えるかどうか、という所は疑問点だがここでは踏み込まない。

そして個人の本質、固有の善の考え方から、悪が「出来ない」ことから「知らない」ことへとシフトしていく。
最後のツイートでは悪=動けない人から悪=無知な人へ、というまとめから悪から抜け出すことへの困難が言われている。


大枠このようにツイートを読んだ。
そして、善と対比される「悪」(善ではないものとして否定形で語られる悪)から抜け出す思考というのはなかなか大変なのだ、と改めて思わされた。

まず考えなければならないと思ったのは、善とは何故善なのか、ということである。けうさんはヒロアカの主人公に「善そのもの」を見出しているが、それが善そのものであるならば僕らは皆そのようにあるのでなければ「善ではない=悪」なのか、ということを考えなければならないのではないか。
だから僕はフランソワ・ジュリアンの孟子的「端緒」の考え方が好きなのだ。
僕らが「善そのもの」と思ってしまうような「困っている人を我が身を顧みず助ける」という行為は、それ自体が善なのではないのだ。それが人(例えば助けた相手、例えばヒロアカを見る読者視聴者)に「善そのもの」だと受け取られたときそれが善たり得るのである。言い方を変えれば、行為が「善である」という解釈をされて初めて善に「なる」のである。
「端緒」の考え方は、その時間的なズレを上手く表現している。

次にアリストテレス的個々の本質の問題である。
アリストテレスによれば、個物を離れてイデアはない。個物はそれぞれがイデアの表現として何ものかである。
しかし、僕たちは個物が持つイデアが多様であることを知っている。
ルビンの壺のような多義図の例を引くまでもなく、一つの個物に多様なイデアを見出すことが出来る。時代小説作家の池波正太郎が言っていたように、「人間は良いことをしながら悪いこともする」のである。その固有の善をもつものが同時に悪であることなど当たり前にあることなのだ。
そのことを「無知=主客が一致しないこと」の問題にしてしまっていることこそがここのミソである。
「出来なかった」ことについてその背後に「知らなかった」という原因を見出している。イデア的善からふるい落とされた個々の善においては、僕らはそれを「知っていなければならない」のである。しかし、全ての個々の善を初めから「知っている」ことなど全知全能の神でもなければ不可能である。
悪は必ず僕らを追い回す。

この輪廻の輪から抜け出すには、どうすればいいだろうか。
まず、國分功一郎が『中動態の世界』で言ったような、「知っている」ことと「出来る」ことを少しだけ切り離すことである(つまり意志と責任を切り離すこと)。「知らないから出来ない」を一本道ではなく、「知ってても出来ない」「知らなくても出来る」というルートを作ることによって、個々の善にそれに相応しい多様性を担わせることである。
また、フランソワ・ジュリアンの「端緒」の考え方のように、善の端緒(これはイデア的善とも言える)を行為に見出し(そこには知っているとか知らないとかは関係ない)その上でその端緒を押し広げていくということを善と考えるということである。
どちらの善の場合も、「私は〇〇である」というアイデンティティ的な「善/悪」の規定から離れていくことになるのではないだろうか。

で、さらに言えば、この「私は〇〇である」という自己規定と、多様なルートや端緒の押し広げとの行ったり来たりというのが善を進めていくことになるのである。
「私は善ではない=悪である」という否定形の自己規定を離れて、「私は○○である」という固有の肯定命題による自己規定をまずは見出すこと。そしてそこから世界との行ったり来たりを繰り返し、常に否定形ではない肯定の、自分に相応しい「私は○○である」に帰ってくること。
それを繰り返していけば、そこに善があるのだ、と僕は思っている。

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