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ベートーヴェンのアウフヘーベン

今月はいろいろあって書くの難しいかなぁとも思ったのだがせっかくだから毎月の連続投稿くらいは頑張ってみようと思う。

しかし最近は本もあまり読めてないのでさて何を書こうか、というところなのだが、年末だということもありベートーヴェンの第九について書いていこうと思う。
年末の日本では色々なところで演奏される第九だが、あの有名な歓喜の歌(第九=交響曲第9番の第四楽章でソリスト・合唱と共に高らかに歌い上げられるあのメロディー♪)は詩人シラーの詩から歌詞がとられており、シラーはヘーゲルにも影響を与えている。何せベートーヴェンとヘーゲルは共に1770年に生まれており(諸説あるようだが)、同時代を生きている。ヘーゲルの『大論理学』は1812 年、『法哲学』が1821年の著作で、ベートーヴェンの有名な交響曲第五番「運命」は1808年に、本日のお題である第九は1824年にウィーンで初演されている。
なんでヘーゲルが出てきたのか、と思われるかもしれないが、ベートーヴェンの第九という交響曲は実は一大アウフヘーベン・ストーリーになっているのである。
(※ただしヘーゲル自身はベートーヴェンの作品については特に言及している訳ではなく、ヘーゲルの芸術に対する考え方からいうとどちらかというとベートーヴェンは中心ではなく傍流であると思われていたようである。)
アウフヘーベン(日本語では止揚と訳されている)とは、ヘーゲル弁証法において、「古いものが否定されて新しいものがあらわれるとき古いものの持っている積極的要素が高い段階で保持される」ということであり、社会や思考の発展において広く言われている考え方である。教科書的には「正+反=
合」みたいな定式も与えられており、あるものが否定されたとき、それらが合わさって両方を踏まえた新しいものが生まれてくるということで、その新しいものの中にはふるいものもその否定も息づいているということである。ヘーゲルは歴史というものがそんな弁証法的過程だと考えた。
おそらく直接の交流はなかったであろうベートーヴェンの第九の中に、その弁証法的なストーリーがある。
この交響曲は4つの楽章からなっている。全体ではどんなにテンポの速い指揮者でも1時間を超える大作となっている。歓喜の歌はフィナーレにあたる第四楽章で、その前には3つの楽章がある。
(※ここから第九のストーリーをたどっていくが、これが定番の解釈という訳ではないかもしれないし、他の解釈を許さないと言いたい訳でもない。しかしヘーゲルと同時代を生きたベートーヴェンのにもきっと相通ずる問題意識のようなものがあって、それが同じようなストーリーを描くことを手伝ったとすれば面白い、という位のことである。)
第一楽章は天から降ってくるようなピアニッシモの弦楽器の下降音形で始まり、次第に大きくなってオーケストラ全体のフォルティッシモに至る、という印象的な始まり方をする。この第一楽章は、「天地創造」を描いている。もちろん18世紀生まれの西洋人であるベートーヴェンはキリスト教文化の人でありその神の創造を描いたものとなってはいるが、音楽という表現方法をとっているが故に、この楽章の荘厳さは決してキリスト教という枠にとらわれずとも世界の創造という様々な宗教に共通の冒頭ストーリーを思わせるものとなっている。
第二楽章は荒々しいティンパニ(大きな太鼓で同じようなやつを並べて音程を付けて演奏される)がインパクト大の楽章である。神の雷になぞらえる人もいる。曲を通して全体に速いテンポと激しさをもっている。ここには自然や社会の厳しさが描かれる。
そして第三楽章は今度は打って変わって甘美な愛の物語である。弦楽器と木管楽器で歌われる安息の賛歌。神の愛、家族の愛、恋人同士の愛など、様々な愛の形を想像させるような美しいメロディが続く。
とまぁここまでの三楽章だけで普通の交響曲一曲分は優にあるような長さである。この後にいよいよ二十数分の演奏時間がある第四楽章となる訳だ。ちなみにここまでは合唱隊や歌のソリストたちの出番はなく、コンサートで舞台上に最初からいる場合はただただ座っているだけの人となっている。
第四楽章は最後の審判の始まりを告げるファンファーレで始まる。そしてこれまでの三楽章の主題が繰り返される。そしてベートーヴェンはこれまでの3つの楽章をすべて否定するのである。いよいよ登場する歌。バリトンのソロで歌われる最初の歌詞はこうである(ここはシラーの詩ではなくベートーヴェンによって加筆された)。

おお、友よ、このような響きではない!
もっと心地よい歌を、
もっと歓びにあふれた歌を、
歌おうではないか

第九の第一~第三楽章はそれぞれに非常に魅力的でとても素晴らしい音楽となっている。しかし、ベートーヴェンはそれを真っ向から否定するのだ。まるでこれまで自分自身が作ってきたすべての楽曲を否定するかのように。
そして合唱とともにあの歓喜の歌が歌われるのである。
ここにあるのはヘーゲル弁証法である。第一、第二、第三楽章の創造、厳しさ、愛の音楽を否定し、しかしそれをすべて捨て去るのではなくより高次のものとしてアウフヘーベンするのが第四楽章ということなのだ。
そしてベートーヴェンは「友よ」「兄弟たちよ」と自分と共にこのアウフヘーベンの物語を歩む人たちへと呼びかける詩をシラーからもってきているのである。ベートーヴェンにとってこの物語は一人で歩む道ではないのだ。
アウフヘーベンは歴史的過程である。その歴史的過程は孤独の中を歩む道ではない。ただ友達や家族や恋人と一緒に行けばいいという道でもない。「友よ」「兄弟たちよ」と呼びかける「同志」とともに、あれでもなくこれでもないと理想の道を切り開いていく。これはヘーゲルの「絶対精神」へのアウフヘーベンの道程なのだ。
だからこそ、第九の四楽章は人を打つ。

もうすっかり暮れも押し迫ってしまったが、この年末はヘーゲルのアウフヘーベンに思いをはせつつ第九を初めから全部聞いてみてはいかがだろうか。決して無駄な70分にはならないと思うのだが(笑)。


※今年は読んでいただきありがとうございました。
 2024年もまたちょぼちょぼ書いていきたいと思います。
 ぜひぜひまた読んで下さい。
 よいお年を!

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