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【絶望的才能論】クズに捧げる才能開花の方法~真人間には読んでほしくない~

久しぶりに書いた、ミニエッセイ。
好きに読んでほしい。
これは特に目的のない文章だから。

あと、エッセイを書く時は、
一人称は僕って決めている。

なぜか考える時は
僕が一人称になるんだよね。自然と。

私に変えるのもめんどくさいから、
僕は僕のままでいく。



【才能について】

才能って何だろう?

才能って、すごくポジティブな響きがする。

でも、実は才能って結構ネガティブなものだと私は思っている。

悲劇的だからこそ、情熱的に乗り越えていくもの。

よく、短所は長所って言うけれど、
もっと厳しい言い方をすれば

どうしても変えられない、
そのままでは今ある社会に受け入れられないような

君の度し難い習性・素質を
社会に価値を与える形に加工できたもの

が才能だと思う。


全部がこれに当てはまるわけではないけれど、
才能の一つの種類はこのタイプってこと。

浪人時代に、私が突如原稿用紙20枚分ぐらいの
エッセイをとりつかれたように書いたことがあって、

それを塾の先生に見せたら、すごく褒めてくれたことがあった。

その時に、その先生に言われた言葉がある。


それは、

無名の天才はたくさんいる。
ほとんどの人は、無名の天才だ。
でも、そのほとんどが「無名」の天才で終わる。

って言葉。
(記憶曖昧だから、ちょっと違うかもだけどだいたいこんな意味)

どういう話の文脈だったかは、
もう忘れちゃった。

たぶん、自分の才能を言語化するなり、
表現しないと、才能は一生埋もれたまま
みたいなことだったと思う。

多くの人は自分の才能なんて一生自覚しない。
それに気づける人は少ないし、

さらにそれを社会に求められる形に
変形させて提供できる人、

あるいはそうしてくれる人と組める人は少ない。

もしあなたに、辟易してしまうような短所があるなら、
それは才能に繋がっているかもしれないね。

でも、その才能がどこに需要があるか
しっかりと見定めて、

求められる形に育てなければ、
君はきっと社会の中で
その能力を発揮していくことはできない。

自分一人でそれができる人なんてほぼいないわけだから、
その才能を愛してくれる人と出会わないといけない。

歴史上の偉人とか、名を残している人って、
大体その人が才能を発揮させるために
尽力してくれた人がいるよね。

マルクスにはエンゲルスがいたし、
徳川家康には本多正信がいたし、
宮崎駿には鈴木敏夫がいるし、

(例えがなんかバラバラでごめんね。
僕の教養のなさ笑)

とにかく、
君のどうしようもないところと、
君の魅力とをきちんと天秤にかけて、
そのアンバランスさを愛して補ってくれるような人を。

才能なんて、みんなあるんだと思う。
だだ、活かし方が分らないし、
社会に活かせるまで磨けない。

そして磨いてない才能の原石みたいなものは
才能とは呼ばれないし、打ち捨てられる。

残酷だけど、
社会にとっては
周りの人にとっては
やっぱりそれはいらないものだよね。

だから才能が花開くまで
じっと見守ってくれる人を
何人つくれるか

そうして応援してもらえる生き方ができるか
が人生を決める気がする。

君が自分は短所ばかりだと思うなら、
生き残りをかけて、
君は愛される必要がある。

自分が貢献できる場所と、
貢献できるところを見つけて
やれることをやる。
やれるギブをしつくす。

自分から無条件に行動していけば
君のことを無条件に受け入れてくれる人も増えるだろう。

君が愛していて
君のことを愛してくれて、
応援してくれる人が増えれば

その関係性の中で、
致命的な短所をなんとか補いつつ、
補ってもらいつつ、

ちゃんと自分の才能を育てていける。

どんなものもそうだけど、
やっぱり愛がなければ
何事も育てられない。

もし、今の人生に絶望している人がいたら、
愛を注げる人を見つけるべきだと思う

ここで言う愛っていうのは、
恋愛みたいな狭い意味じゃなくて

無条件に相手のために行動すること。

話はズレるけど、
よく人って天才に憧れるよね。

突き抜けていて
誰にも真似できない独特の技術と世界観。

唯一無二って感じがしていて
カッコイイ。

でも、なんかその憧れって
ものすごく表面的だと思う。

僕はいわゆる”天才”は

天才になることでしか、
生きる道が無かった人だと思う。

例えばだけど、

スティーブ・ジョブズとか
イーロン・マスクとか
ホリエモンから
ビジネスを取ったら生きていけると思う?

もし職業が生まれた時点で
決まっている社会で、
変更ができない世界だとして、

ホリエモンの仕事
がカウンセラーだと決められていたとしたら
どうにもならんと思うよ。

(勝手に例えで出して、仮定で話をして申し訳ない)

アインシュタインが小学校を
退学させられた話とか有名だけど、

彼が生きる道は科学にしかなくて、
その絶望をどこかできちんと受け止めた時があったんだと思う。

科学にしか生きる道がないから、
科学のために生きて、死のう
他のことは些末なことだってね。

その開き直りに至るまで、
一体どれだけの挫折があったのか

僕には計り知れないし、したくもないけど、

才能を極めていくには、
それぐらいの覚悟が必要だと思う。

ぽわ~っと
私も才能に溢れた未来がいい!

みたいなふわふわな気持ちでは無理だと思う。

まとめ

なかなかに支離滅裂な文章になってしまったから、まとめると、

・才能は良くも悪くも偏った能力のこと
・大きな才能ほど大きな偏り(短所)を生む
・その偏りを社会に益をもたらす才能にするには、
 偏りを社会に求められる形に形成していく(才能を磨く)必要がある
・才能を磨いていく過程を一人で乗り越えるのは難しい
・だから、自分の才能(かつ短所)を愛してくれる人が必要
・自分の才能を愛し、応援してくれる人をつくるには、
 自分の能力を使って誰かに貢献し愛されるしかない
・天才は望んで天才になったのではない
・天才は天才になるしか、生きる道がなかった人
・天才になるには、自分の偏りについて絶望し受け入れる必要がある

という感じかな。

何が言いたかったか、
よくわからなくなってしまったけど、

絶望している人は、絶望万歳ってこと。

挫折する度に、
色々自分がねじれていくのが分かると思うけど、

どうせねじれるなら、
パワフルに、
ねじ切れるまでねじれること。

狂気じみて、明るい方へ卑屈に諦めることが大切じゃないかな。笑

偉そうなことを書くだけ書いて、
溜飲が下がった午前10時。

ひどい記事を書いてしまった。

会いたい人は、
また会いましょう。


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