見出し画像

【短編集】beautiful mess

beautiful mess


金木犀と線香花火





 人間は運命や奇跡という言葉が好きだ。現実に起きた自分にとって都合のいい出来事を、全て運命と奇跡にするのだ。そして僕もまたそういう人間だった。

 八月が終わり、空が少し高くなった気がする九月の初旬。もう夏も終わってしまったのかと言わんばかりのこの世界の雰囲気。アブラゼミが最期の力を振り絞り命の音を鳴らしている。

「翔、もう夏も終わりだな。」

 片手にガリガリ君という夏を持ちながら海斗は言った。

「まだセミが鳴いてるから、ギリギリ夏だよ。」

 夏の定義も秋の定義も知らない。僕らが夏だと思ったら夏は終わらない。そんな気がした。

「おい翔、この匂いなんだっけ、この秋の花の匂い。」

 「ん?おお、これは金木犀だ!ちょっとどこからこの香りがしているのかたどろうよ。俺金木犀の香り好きなんだよね。」

 「別にいいけど、金木犀の匂いをたどりたがる高校生なんてお前やっぱ変わってるな。」

 部活が終わってへとへとな足取りの帰路の中、どこからか金木犀の甘い香りがした。金木犀は秋を代表する香木だ。小さなオレンジ色の花からは強い甘い香りがする。花の姿は見えないのに香りがしてくるくらい、その香りは強い。花言葉には「謙虚」「謙遜」「気高い人」「陶酔」「初恋」がある。

 金木犀の香りに誘われて、僕と海斗はその花の在処を探した。近づくにつれ、その香りが強くなってきて、すぐにその場所は分かった。何故ならそこには先客がいたからだ。一人のショートカットヘアの制服姿の女子高生がカメラのファインダー越しに金木犀を覗いている。

 「私、金木犀の香り苦手なんだよね。」

 彼女は開口一番にシャッターを切りながらそう言った。

 「でもこの香りに誘われて、たどって来ちゃうんだよね。私、香りに目がないからさ。悔しいなぁ。」

 「私、香織っていいます。永山香織。よろしく。」

 「嫌いなのに何で写真撮ってるの?」

 「翔、まったくお前ってやつは。名前が香織だからに決まってるだろ。」
 
 「ははは。そのとおり。香りのするものと一緒に写真を撮るのが私の人生の使命なんだ。」

 香織は言い慣れたテッパンのジョークなはずなのに恥ずかしそうに笑った。恥ずかしがるまでがセットのようだった。

 これが僕と香織の初めての出逢いだった。この出逢いは運命だったし、奇跡的な出逢いだったと思う。僕は金木犀の香りが嫌いな香織に恋をした。人生で初めて人を好きになったのだった。


「ねえ、翔くん、海斗くん、線香花火ってなんで綺麗だと思う?」

 季節が一周した夏の終わり、ヒグラシが残暑を抑える納涼の音を奏でる中、パチパチと火花を散らしながら暗闇に咲く線香花火をじっと見つめて香織は言った。大学受験や就職活動を控えた僕ら、卒業後はみんなバラバラになる。こうやって三人が揃って遊ぶのは最後かもしれないと思うと、胸がきゅうっと締め付けられるほど寂しかった。


「なんでだろう、花火はどれも綺麗だけど何故か線香花火は特段綺麗に見えるよね」

 そう曖昧な答えを口にしてしまった瞬間、その火の玉は落ちた。

「もう落ちちゃった。線香花火がもっと長くついてたらさあ、そんなに綺麗じゃなくなるのかなあ。」

 香織は寂しそうに火の消えた線香花火の棒だけを持ちながら言った。

 「そんなことないよ。綺麗なものは永遠に綺麗だよ。きっとそこに存在する限りは。」

 僕は自信がなかったが、願望も込めた反論をした。

 儚いからこそ美しいのかもしれない。そしてそういったものはたくさんある。春の桜だとか、セミの一生だとか、高校3年間の青春だとか、10代の恋だとか。

「こうなったら線香花火の二刀流だ〜」

「なにそれいいなっ!俺も〜!」

 香織は今度は無邪気な子どもみたいに線香花火を両手に持って火をつけた。海斗もそれに続く。
 この香織と海斗との時間は永遠に続いて欲しい。儚さなんていらない。ずっと美しい時間であって欲しい。

「おい!俺のは一本しかないじゃんかよ。」

「翔は一本だけだから儚くて私たちのより綺麗かもよ〜」 

「おっしゃ、線香花火レースしよう。一番最初に落ちた人が負け。罰ゲームは好きな人発表な。」

 海斗が唐突で強引なレーススタートの合図を鳴らした。フライングした二刀流の二人対一本の線香花火の僕という構図。 

 運命には逆らえない。先にその火の玉が落ちたのは僕だった。

 「翔くんの負け〜。」

 「さあ、翔、言えよ。俺にはもうわかってんだよ。」

 海斗に僕の香織に対する気持ちを伝えたことなど一度もない。 全てを知っている顔で海斗はそう言った。

 「香織、あのさ、、、」

 海斗と香織が手に持つ儚い線香花火はいつもより長めにパチパチと音を立てて暗闇に咲いた。それはこの世界で一番美しいものに思えた。 

 僕らの夏は永遠に終わらない。やっぱりそんな気がした。

 そして僕はまた運命の前で無力になり、奇跡に期待した。 





ヨガ



「おしりでこの大地を、地球を感じ、手や頭で空気の重さを感じてください」

「まぶたを閉じた暗闇からうっすら光る照明の灯りを感じてください」

「吸った空気には涼しさを、吐いた空気には温かみを感じ、手と手を合わせ、自分の体が今ここにあることを強く感じてください」

 ヨガインストラクターのミチコ先生は優しい声でそう言った。

 僕は瞼を閉じて、目で見てきたこの外の世界ではなく自分の体全身でこの世界を感じとろうとした。普段意識したことのなかった大地や空気、照明の灯り、呼吸、それらを感じ取れたとき、自分の生を確認できた。気付いたら僕は泣きそうになっていた。

 僕は小売店で働いているので休みは不定期だ。そのおかげで休みの日は一人の時間を充実させなければならなかった。これまでの僕は休日ベッドで一日の大半を費やし、SNSやYoutubeを開いては閉じるを繰り返し、眠くなったら昼寝をし、起きたら日が暮れている、そんな休日を繰り返していた。

 このままでは明らかに人間としての生活を失うだろうと思い、前から自分の姿勢やメンタルが気になっていたのでヨガ教室に行ってみることにしたのだった。

 近くのヨガ教室は時間割が決まってあり、好きなクラスに参加できるというものだった。ヨガについて知見のない僕は今から一時間後に始まるクラスをとりあえず予約した。

 隣駅近くのイオンの4階にヨガ教室はあった。受付を済ませ、マットを借りてスタジオの中に入ると、数人の生徒さんと先生が準備してるところだった。あのスタイルのいいヨガウェアを着ている女性が先生だなとすぐに分かった。先生は完全に陽のオーラをまとっており、体の隅々までがキラキラ光っていた。

「こんにちは!ヨガ初めてなんですね、何かスポーツをやっていましたか?」

ハツラツとした表情で先生は尋ねてきた。

「高校時代はテニスを、中学まではサッカーを。でも大学からはほとんど運動していません」

僕は正直に事実を述べた。

「男の人は筋トレはできても、筋肉を伸ばしたりするのが意外とできてない人が多いので、無理せず頑張っていきましょうね。」

 ジムやヨガのインストラクターというのはどうしてこういつも元気でハツラツとしているのだろうか。自分もああなりたいと思った。

 僕が受講したクラスはレベル的には真ん中のクラスでハタヨガと呼ばれる種類のヨガだった。

 レッスンは一番前に先生がいて、先生の真似をしながらヨガをするものだった。先生は特にストップすることなく、口頭で身体の位置や動き、意識するポイントなどをみんなに伝え、滑らかにノンストップで行っていった。動きは意外と体幹を使ったものが多く、すぐにじわじわと汗をかいた。自分の体の筋肉がこんなにも伸びてなかったのかと強く感じた。いったい今までこれらの筋肉は何をしていたのだろう。

 一時間くらい全身を使ったヨガを行い、筋肉が伸びた状態で仰向けになった。両手を伸ばしてゆっくりと大きく呼吸をしていき、先生は照明を消す。静かな音楽だけが流れ、自分の頭から指の先、足の指の先までリラックスしている。この世界に自分という者が確かに存在していて息をしている。たった今も僕は生きていた。とても気持ち良かった。

 70分間のレッスンが終わり、受付で入会についてやクラスのチケットの説明を受けた。

「是非たくさん来てくださいね!」

帰り際にミチコ先生にそう言われた。

 生きている中で普段無意識にしていることに意識を向けるのは難しいことだ、それを意識できる時間がヨガなのかもしれない。

 また自分の中に新しい宇宙が生まれた気がした。




デカルト


「さあ、問題だ、五角形の内角の和はいくつだ」

僕らは皆難しい問題に静まりかえった。

白鳥先生は全く整えることのない白髪の眉毛で、みんなの反応をこれは想定内だという顔をしたまま続けた。

「いいか、君たち、頭の中に野球のベースを思い浮かべろ」

「野球のベースは何角形だ」

「はい!五角形です!」

僕はすぐに答えた。

「そうだ、じゃあこの五角形のベースに線を引いて三角形を作ってみろ」

僕らは五角形を三角形に分けた。

「三角形はいくつできた」

「三つです」

「なら三角形の内角の和はいくつだ」

白鳥先生は分厚いレンズの眼鏡をくいっとあげてたたみかけた。

「180度です」

すでに習っていたことだったので答えるのは容易だった。

「ではもう一度聞く、五角形の内角の和はいくつだ」

十秒ほど考えた後、すぐに鳥肌が立った。それは分からないことが分かった瞬間だった。

「540度です」

「いいか君たち、難しい問題や、複雑な問題というのはな、簡単な問題の組み合わせなんだ」

「複雑なことは単純なことに分割して考えなさい」

「君たちにはどんな難題も解ける力があるんだ」

 白鳥先生の声が教室中に響き、さわやかな五月の風が薫った。




トルコキャット


 これは本来僕が墓場まで持って帰りたい恋の話なのだが、人はそんな話まで誰かにしたくなる。

2018年当時大学生だった頃、僕は1人のトルコ人女性に恋をした。彼女の名前はalisa。出会いは僕が英語を勉強するために使っていた言語交換アプリだった。
僕ら2人はメッセージや電話、ビデオ通話を通して次第に恋に落ちていった。

しかし、彼女には大きな問題があった。それは初恋の人が忘れられないということだった。別れてから3年が経つようだったが、彼女の記憶は彼でいっぱいだった。そのせいもあり僕は彼女に会うまでに10回以上振られていた。

若かりし僕は狂気的に純粋で、オンラインでの出会い、遠距離恋愛や国際恋愛、宗教的問題などを物ともせず、真っ直ぐにalisaを愛していた。一刻も早く彼女に会いに行こうと親に内緒でその年のクリスマス、僕はトルコに飛び立った。

alisaは空港まで迎えに来てくれて、泊まるところの最寄りのバス停まで一緒に行ってくれた。バスの中で僕らはずっと2人の存在を確かめるように、体温を感じるように手を握っていた。
街に着くとハンバーガーショップに寄って僕が持ってきたお揃いのセーターや猫のポーチ、チョコレートなどのプレゼントを彼女に渡した。

泊まるところはもちろん別々だったので、自分の宿に帰るとalisaからメッセージが来ていた。

「やっぱり別れましょう」

僕は頭が真っ白になった。会ったら違ったってやつか?それもトルコで。
僕はalisaを説得して、もう一度会ってくれるようにお願いした。

次の日、alisaはもう一度会ってくれた。昨日あげたセーターを着てくれていた。彼女はとても感情の波が激しい人なのは知っていたので、彼女を理解していたし、まっすぐな愛を彼女が1番求めていると思ってたので、それを受け入れてくれたようだった。

2人でブックカフェでランチをした後、僕らは僕の泊まっている宿に行った。

イスラム教徒は結婚相手としか、キス以上のことはしないとalisaから聞いていたのでもちろんそのような行為はするつもりはなかった。
僕らは愛が高まっていたので、ベッドで抱擁して、互いの心と体がすぐそばにあるのを感じていた。

彼女の方から「キスしないの?」と言ってきたのはまさかだった。
僕は確かにこの日、alisaに愛されていたと思う。

しかし、僕はまた振られていた。理由はやはり初恋の人が忘れられないとのことだった。トルコで悲しみに明け暮れていた僕はトルコに観光をしに行ったわけではなかったので行く宛もなく、近くの公園に行った。

ベンチに座って、絶望している僕の隣に1匹の猫が寄ってきた。猫はとなりにすっと座り、何もすることなく、そばにいてくれた。あのときの僕にはその存在だけで救われた。僕は今でもこの猫をソウルメイトだと思っている。

日本に帰る日、もう一度alisaに会った。彼女のお気に入りの海岸に行き、2人で海を眺めた。空には2つの飛行機が飛んでいて、交差していく。近づいては互いに離れていく飛行機を見て彼女は「私たちみたいね」と言った。あの日見た空を僕は一生忘れないだろう。

バス停まで彼女は見送ってくれて、イスタンブールで使えるバス用のICカードを僕にくれた。僕はそれを今でもお守り代わりに持っている。お礼に僕は日本の五円玉をあげた。alisaにとっていいご縁がありますようにと渡し、最後にハグだけして僕らは離れ離れになった。

今思うと馬鹿だったなって思うが、今の自分には到底できないくらい純粋に恋に落ちていた自分を羨ましくも思う。
alisaとは連絡はもうとっていないが、他の誰かと幸せにしているようだった。いいご縁があってよかった。

年末、家族に内緒で好きな人に会いにトルコに会いに行った、そして振られたことを暴露した。内緒で行ったことは怒られたが、母親はかつて好きな人に遠い県外から追いかけられたことがあったことを語ってくれた。

それぞれの人に語るには語りにくい恋があるのかもしれない。しかし、全力で純粋に人を愛するということほど美しいものはない。

僕は過去も未来も愛に満ちた純粋な人であるということをあのトルコの空を思い出しては自分に言い聞かせるのだ。
そしてつらくなってはソウルメイトであるあの猫に想いを馳せ、心を救ってもらうのだ。




ダニエル


 「空港まで見送らせてよ。僕たち友達だろ」

 そう言ってダニエルはタクシーで空港まで見送ろうとした。もちろん運賃は僕が全額払うのだが、彼にとっては日本人である僕がお金を払うのは当然な態度だった。

 僕は違和感を覚えた。友達ならお金を払わせないようにここで見送ればいいではないか。それに一人旅大学生にお金を払わせるなんて本当の友達ではない。僕の違和感は苛立ちに変わっていた。今思うと、あのときの僕は器が小さかったのかもしれない。

 ダニエルとの出逢いは実に運命的だった。

 一人でキューバに乗り込んだ3日目の朝、僕は首都ハバナから世界遺産の街トリニダーに行く予定だった。

 ハバナの路地を歩いていると、天から「コンニチハ!!」と日本語が聞こえてきた。あまりの寂しさと恐怖で母国が恋しいあまりに聞こえてきた幻聴だと思った。僕は恐る恐る天を見上げた。

 そこには我が母国、日の丸の旗が風になびき、その隣で1人の白人キューバ青年が手を振っている。

 「チョットマッテ!」「マッテ!」

 彼はそれだけ言い姿を消した。きっと降りてくるのだろう。僕は待つしかなかった。

 「日本人デスネ!私ハ日本人のトモダチに伝言がアリマス!どうかこれを渡してクダサイ!」

 彼はそう言って1枚のメモを僕に渡した。彼の友達の名はアスチと言った。メモにはアスチの住所と電話番号、病気が心配ですと書いてあった。どうやらアスチは病気らしく、彼はアスチの身を心配している。

 「わかった。僕はマサヒロです。よろしく」

 覚えたての拙いスペイン語で挨拶する。

 「僕はダニエル。マサヒロ時間あるかい?よかったら家にあがって」

 このときの僕は20歳。若さと無知は狂気だ。何も恐れることなく、見知らぬ土地キューバで見知らぬ男ダニエルの家にあがった。

 彼の家はコロニアル様式の建物の3階にあり、彼は母と2人暮らしをしていた。今僕は、ディープなキューバを目の前にしているのだと強く思った。

 ダニエルは27歳で清掃の仕事をしているらしい。裕福とは程遠い。社会主義国のキューバは等しく貧しいように思えた。僕にはダニエルが27歳には見えないくらい仕草や態度が幼く見えた。そして彼は日本語学校に通っているらしい。日本人である僕を心良く受け入れてくれたこと、日本の国旗が掲げられていたことの訳がわかった。

 彼の日本語は本当にめちゃくちゃだった。語順がバラバラで、日本語での意思疎通は難しかった。キューバの公用語はスペイン語で、ダニエルは英語はまだ勉強中というところだった。見たところ僕の中学生程度の英語力とさほど変わりない。彼は常に日本語と英語の辞書を片手に持ち、伝えたいことがどうしても伝わらないと「チョットマッテ!!」とすぐに辞書を開き調べる。結局言いたいことはいつもよく分からないが、彼の真剣な眼差しを見ると、耳を傾けざるを得ない。

 彼の部屋はナルトや孫悟空のステッカー、折り紙の鶴など、日本愛感じられるものがたくさんあって嬉しかった。僕は君の好きな日本から来たんだよ。そう心の中で僕は彼に自慢げに言っていたかもしれない。

 部屋にダニエルと1人の日本人が写っている写真があった。

 「これは?」

 「これが友達のアスチだよ!」

 アスチは僕よりもずっと歳上だった。見た目では60歳を超えているように思える。

 「アスチが病気で心配なんだ。」

 悲しそうな目でダニエルは言った。その目は大切な人を思う目だったから、ダニエルがアスチさんを慕っているのはよく分かった。

 アスチさんも僕のようにキューバに旅をしたときに、ダニエルと出逢ったらしい。

 「よかったら、僕の家に泊まっていくかい?」

 キューバは旅行者用の民泊(民泊といってもホテルのように個室が用意されることが多い)が盛んなようで、ダニエルの家も民泊ができるようだが、この家のどこに個室を隠し持っているのだろう。

 「今日はトリニダーに行って、明日ハバナに戻ってくるんだけど、明日泊まってもいい?」

 実は明日の宿は決まっていない。僕は民泊制度を利用して完全に行き当たりばったりの旅をしていた。

 「いいよ。また明日来て」

 ダニエルはそう言って電話番号が書かれたメモを僕に渡した。

 彼と別れた僕は無事にトリニダーに行き、世界遺産の街を満喫し、ハバナに帰った。

 暗闇のハバナは昨日の街とはまるで違うようだった。僕は迷子になってダニエルに電話した。

 なんとかダニエルの家に着いて、結局ダニエルの家に日本に帰るまで3日間泊めてもらうことになった。もちろんお金を払って。
 案の定、彼の家に個室などなく、完全なるダニエル一家との共同生活が始まった。
 お風呂はシャワーが完全に壊れていて、沸かしたバケツのお湯を体にかけるだけだ。食事も完全にダニエルとお母さんがつくった手料理でこれが僕には合わなかった。

 ダニエルと街中に出かけてお酒を飲んだ日もあったが、このとき僕は昼間に食べた料理が体に合わなかったのか、お酒とともに路地裏で吐いた。日本でも吐いたことがなかったのに、ダニエルの前で二回も吐いた。ダニエルは死ぬほど引いていた。申し訳なかった。

 ダニエルは優しかったのだが、お金は全部僕持ちで、彼は何も遠慮しないし、なんなら母のためにこれを買ってくれと頼まれたり、母が編んだ物を買ってくれとせがまれた。

 友情の中に、少し汚れた物が垣間見れて、僕は気付いたらダニエルを嫌がっていた。

 最後は1人にして欲しいと伝えて、せっかくのキューバを満喫しようと思ったけど、あまりの疲労感と、ろくなものを食べていなかったので、ぐったりと広場のベンチで座ってしまっていた。現地の派手なおばあちゃんに、「疲れてるわね」と声をかけられるほどに僕は疲れ果てていた。

そして次の日ダニエルと共に空港へ向かう。タクシー代は僕が払うし、帰りのタクシー代も渡さなければならない。僕はイライラしながらタクシーに乗っていた。

 「友達」ってダニエルにとって何なの?そんな疑問がずっと脳裏に浮かぶ。貧しいから、日本人が全部してあげるのは当然なの?僕らが対等な経済力だったら、もっと違ったの?
 そんなことを思っても無駄だ。
 ダニエルの家で彼と彼のお母さんと3人で写真を撮った。彼はその写真を本当に嬉しそうに見ていた。何よりも彼が今まで会ってきた日本人の友達を自慢気に話していることが、彼がいかに友達思いなのかを物語っている。アスチさんの身も心配しているし、僕が吐いて具合が悪くなった日も薬をくれた。


その年の1月1日。

 この日ほどスマートフォンを見て目を疑った日はない。キューバのダニエルから電話がかかってきたのだ。

 「ハッピーニューイヤーマサヒロ!!」

 ダニエル、あの日別れ際、怒った態度でさよならしてごめん。

 君はいかに友達と接点を持つかを最重要視しているんだよね。

 君はキューバに住む唯一の友達だよ。また会える日まで。

 いつか僕に美味しいごはんご馳走してくれよ。

 元旦の寒空の下、あの日初めてダニエルに会ったときのように空を見上げる。「マサヒロ!」空からダニエルの声がする。今回はどうやら幻聴らしい。この広い空はキューバまで繋がっている。

遠い同じ空の下、友達が今日も生活している。




ジュール・ヴェルヌ


梅雨が明け夏本番を迎えた空が淡い紫に染まりかけている。信号が赤に変わりかけた横断歩道を僕らは駆け足で渡る。

「いいから黙って付いてきて」 

楓は嬉しそうにそう言った。

「どこに行くの?」

「恥ずかしいからまだ言わない」

「ねえ、どこに行くの?」

僕は楓にべったりくっついて、しつこく聞いた。彼女の首元からは檸檬の香りがする。

「調べたいものがあって、図書館に行くの。いいから黙って付いてきなさい」

僕は楓に完全に惚れていた。楓にはきっと、もうこの気持ちがばれている。僕は隠し切れていなかった。そして楓は僕のこの気持ちを弄んでる、そんな気がした。 

「はあー涼しいー」

図書館に着いて楓は満面の笑みで十秒ほど立ち止まった。

「一体何を調べるの?」

「フランス語を訳したくて」

彼女は鞄から一冊のジュールヴェルヌの本を出した。

「おばあちゃんがね、好きな人ができたら、この本の一節をその人と訳しなさいと言ったの」

「私あなたが好き」

そう言って楓は好きに対する僕のリアクションを見ずにフランス語を訳しはじめた。

「海に漂う二隻の舟は風と波がなくても出会う」

「だって!」

 そう言って彼女は嬉しそうに訳されたフランス語のメモを僕のシャツの胸ポケットにしまった。

 僕は彼女の首元から香る檸檬の匂いに誘われて彼女の唇にキスをした。





交換日記喫茶店〜幸せのマインドマップ〜


「ねえもっと分かる人いないの?」

「申し訳ございません。只今の時間は私しかいなくて…、担当の者なら13時過ぎに来ます」

情けなかった。仕事なのに、仕事にならない。全てが分かるわけなんてないのに、客は店員が全てを知ってると思ってやってくる。でもこんなにたくさんのジャンルを扱ってるホームセンターで全てを網羅するのは困難だし、商品について研修する時間などどこにもない。みんな地道に知識を積み重ねるしかなかった。

よく仕事してるな。

これがホームセンターの会社に入社した1年目の感想だった。

この会社に入社した理由はただ1つ。一度色々な業界の4社くらいから内定を頂いたが自分が行きたい会社ではない気がして内定を全て取り消した。
自分のやりたいことに近い旅行業界の他に、農学部ということもあり、学校の掲示板で募集要項が貼ってあった今の会社を受けた。旅行関係の会社は全て落ち、最後に残ったのがここの会社だった。僕はもう就活を続ける体力などなく、そこそこ大きな会社だったのでこの会社に入社したのだった。

小売業は入社した何年かは店舗での売り場業務が多い、そのまま店舗勤務のチーフや主任、店長などに昇格するか、本部で商品開発やバイヤーなど華やかな響きの仕事があるが、実績のある精鋭の人しかいけない。

このまま店舗であのチーフみたいになるのかと未来が想像できたとき、ゾッとした。

このままでいいのかな。

「お前、これどう見たって違えじゃんかよぉ!」

「申し訳ございません、お作り直しかご返金の方させて頂きます」

合鍵作成の失敗でお客さんに怒鳴られた。鍵屋ではない、それでも素人目で鍵を選び、マスターキーからコピーするように合鍵を作る。合わないことは多い。

ため息をつきながら、バス停まで歩く。しまった、今日は祝日ダイヤだ。次のバスまで1時間もある。仕方なく、僕は歩いて帰ることにした。

いつもバスから見えていた植物に囲まれたレンガ調の建物が見えた。『喫茶ダイアリー』と書いてある。これ喫茶店だったのか。僕は心を休めたくなったので、中に入った。

カランコロン

「いらっしゃいませ」

そこには同い歳か僕より少し歳上の男性が立っていた。すらっとして脚が長く、ジーンズ素材のエプロンをしていた。
店内はうっすらとした灯りでお客さんは誰もいない。本棚にはたくさんの本が並んでいる。

「今日は何かお悩みでも?お悩みがありましたら、是非こちらの席へ。解決へ導いてくれるかもしれません。」

悩み?喫茶店でそんなこと聞かれると思わなかった。悩みならある。本当にやりたいことは何でそのためにどうしたらいい。

「あ、はい」
そのまま案内されたテーブル席に座った。

「こちらの交換日記に是非お悩み事をお書きください」

凄い古い紙の匂いがする分厚い日記だ。おそるおそる日記を開くと色んな人の色んな悩みが書いてあり、悩みの下には別な筆跡で悩みのアンサーが書いてある。

1番最後のページにはこんな悩みが書いてあった。

『このまま今の仕事を続けるべきか、転職するべきか迷っています。でも私には何も技術がありません』

見た瞬間日記を閉じたくなった。

「お客様、ご自身のお悩みを書く前に、是非前の人の悩みに答えてあげて下さい」

「でも、僕にこの人の悩みを解決してあげる力がありません、むしろこの人と同じような悩みを抱えています」

「そんなことはありません。あなたの言葉が想いもよらない転機を与えることだってありえます。なにせ何かに悩んでいる人というのは実はセンサーが敏感ですから。色んなことに影響されるものです。是非あなたなりの答えを」

確かに、悩みが解決するにはそれに越したことはない。何よりみんなそんな簡単に解決するほど軽い悩みを抱えていない。それほど責任を持って答えなくてもいいのだ。

僕は技術がなくても転職はできるし、技術を身につけてからでも遅くはない。そして続けることで分かることもあると書いた。

ありきたりのことしか書けなくて申し訳なく思った。結局助けになってはないのだろうか。
自分の回答を見て、他の人の回答も期待しないように悩み事を書いた。

『なんのために働いてるのか分からない』

三日後、仕事が休みだったので、喫茶ダイアリーに寄った。もうこんなにたくさん花が咲いていたのか。この前は暗くなっていたので気づかなかった。
庭に1匹の猫がいる。茶色の毛並みの茶トラ。そろりと自分に寄ってきた。今度はくるりと方向転換して、お店へ連れて行く。こちらの席ですと言わんばかりにテーブル席に誘導する。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。どうぞ」

席について日記を開く。

『幸せのマインドマップ』

それだけ書いてあった。マインドマップ??
は?なんでこんな中途半端な書き方なんだ。最後まで言えよ。優しくないな。僕はこの途中で放棄したような回答に苛立った。そして自分が意外にも日記の回答に期待していたことに情けなく思った。

家に帰り早速マインドマップを検索する。それは連想ゲームのようなものだった。真ん中にメインのテーマがあり、そこから枝が伸び広げていく。例えば真ん中に「痩せるために大切なこと」と書いたとすればその先に枝を伸ばし、「運動」や「食事」を書くといった具合だった。どういった運動やどういった食事なのかその先にどんどん書いていく。

ほう、これがマインドマップね。「幸せのマインドマップ」、とりあえず真ん中に「どんなときに自分は幸せか」と書く。
そこから枝を伸ばす。ご飯を食べているとき、誰かに必要とされるとき、新しい価値観に出会えたとき。
この「新しい価値観に出会えたとき」に自分にワクワクした感情が芽生えた。これに枝を伸ばす。それのどこが幸せなのか。新しい価値観に出会えたときは自分が成長できる気がした。それは新しい自分の構築だ。そしてそれを他の人にも与えたい。どんどん枝が伸びる。
じゃあ人はどんなときに新しい価値観に出会うのだろう。
人との会話、読書、旅や学校。

そうだ、僕は人と人、人と本、人と旅を繋げたい。多くの人に新しい価値観に出会える場所をつくりたい。
僕が本当にやりたいことはこれなんだ。

僕はすぐに自分の中のマインドマップを壁に貼った。この心のマップが人生の地図になることに期待しながら。





ラマルクの進化論


「なあ真司ラマルクの進化論って知ってるか?」
神谷はいつも唐突に話の先が予測できない単語を放つ。

「なにそれ、ダーウィンの進化論なら知ってる」

「首の長いキリンは高い木の草を食べることができるけど、首の短いキリンは高い木の草を食べることができない。首の長いキリンは遺伝子が受け継がれていくけど、首の短いキリンは短い木の草しか食べることができないから淘汰されていく。それでキリンの首は長くなった。これがダーウィンの進化論。ラマルクの進化論は首の短いキリンが一生懸命高い木の草を食べるために首を伸ばしてたら首が長くなって、その頑張って獲得したものが子どもに受け継がれて、キリンの首は長くなったっていう説。」

「なるほどな、でもダーウィンの進化論が結局正しいんだろ?」

「うん、でも俺はさ、頑張って獲得したものの方がもともとある強さよりも強いと思うんだ。獲得したものが強ければ淘汰だってされない。それに誰かが頑張った功績や、凄いことってさ、受け継がれてきただろ?俺たちはまだ弱いけど、強くなって、俺たちが後世に色んなことを受け継がせていけば、人類はどんどん強くなると思う」
神谷の目は輝いていた、それは首の長いキリンの目ではなく、首を伸ばし続けたキリンの目の輝きなのだと僕は思った。

「おい神谷、いつからお前人類代表になったんだよ」

僕は鼻で笑うふりをして神谷の言葉が心に刺さったのを隠した。

そうだ、僕はこの残酷な競走世界で淘汰されずに生きたい。

首を伸ばし続けなくては。

すでに神谷のラマルクの進化論が、脳内を巡り血液とともに首に巡っていく、何か強いものが受け継がれているのを感じる。

僕らは今日も首を伸ばして進化し続ける。




恋だの愛だの


真実を語るには勇気がいる。だから物語にひっそりと託したくなる。そうやって僕は筆をとる。

 もしかしたら僕は死んだら地獄に落ちるのかもしれない。恋だの愛だのそんなものの前では人間は甚だ愚かになる。本当の恋や愛も分からないくせに。


 去年の春、1ヶ月付き合った彼女に振られた。まただと思った。付き合っては振られ、付き合っては振られる。初恋の人が忘れられないだとか、好きだった人から連絡が来ただとか、よく分からない言葉を並べられては振られる。ようは僕はつまらない人間なのだ。雰囲気で、いいかもと感じられ、付き合えば中身のない面白くない人だと思われ見限られる。それの繰り返しだった。
 僕の恋愛はいつも、パズルに似たような形のピースを、無理矢理はめているようなものだった。その人に対してのピースは僕ではないのだ。形が似ていても僕ではなかったのだ。

 それでも最後の彼女のことは別れてからも好きという感情が消えなかった。僕は初めて復縁を目指した。完全に距離を置きつつも、僕は半年ぶりに彼女に連絡した。彼女の好きなお笑い芸人、霜降り明星のライブに行こうという文言で。作戦は成功だった。僕は彼女に会えることになった。

 半年ぶりということもあり緊張とワクワクが入り混じった複雑な心境だった。僕は別れてからも半年間も彼女を想っていた。今回で自分から連絡するのは最後のつもりだったので、会うのも最後になるかもしれないと覚悟を決めた。

 電車に一時間揺られて最寄り駅に着く。集合時間になると一通のLINEが来た。「友達の家からそのまま行くから荷物ロッカーに入れてくる。」
 僕はきっと新しい男か誰かの家からそのまま来るのだろうと思って心が少し冷たくなった。改札から現れるの待つと彼女は後ろから現れた。彼女は仕事着のようなオフィスカジュアルな格好で謝るように手を合わせた。会った瞬間僕は彼女が僕に何も期待せずに今日ここに来たのを感じとった。

 僕は半年間を埋めるように喋ったが彼女はまだ冷めているように感じる。僕に対する質問はあまりなかった。ただ自分が言うことに彼女はたくさん笑ってくれた。そのことがすごく嬉しくて幸せだった。

 劇場に着き、時間になると次々と芸人達がネタを披露した。霜降り明星の番になると彼女は嬉しそうに、きゃあっと声を出した。霜降り明星の漫才は劇場がうねるように笑い声に包まれ、彼女も声を出して笑っていた。僕は霜降り明星の漫才を見ながら泣いていた。その涙は彼らが面白すぎて泣いたのか、もう彼女に会えなくなるのが悲しくて泣いたのか分からなかった。おそらくその両方だろう。ただ彼女が自分の隣で笑っているのがたまらなく愛おしかった。

 漫才が終わり、二人で韓国料理を食べた。僕は彼女に聞きたいことがたくさんあった。どうして今日来てくれたのかだとか、彼氏はいるのかだとか、振られた本当の理由だとか、またゼロからやり直せないか、などたくさん知りたいことがあった。だが彼女の反応を見て、もう僕に対して気持ちはこれっぽっちもないことを感じとった。このまま、幸せなまま、彼女を大好きなまま消えたいと思った僕は彼女に何も聞けなかった。

 ただただ楽しい時間を過ごし、改札まで見送った。彼女が寒そうなとき、カイロをあげようと持っていたので二つあるうちの一つを彼女にあげた。本当はまた会おうねと言いたかったが覚悟を決めていたので、「バイバイ」とだけ小さな声で言った。僕は彼女が見えなくなるまで見届けた。そのとき彼女は一回だけこちらを振り返った。あのとき彼女は何を思ったのだろう。何度でも振り返って欲しかった。戻ってきて欲しかった。

 夜も深くなり気温がグッと下がる。お気に入りの服が着たかったがために薄着になってしまった僕はポケットに手を突っ込んだ。先に開けた自分の分のカイロはまだとてもあつかった。


 数ヶ月が経ち、彼女のことを考えないようにつとめていたが、ひょんなことで彼女を思い出した。

 社会人1年目の僕は数ヶ月に一回研修があった。僕はナカジマ書店で働いている。入社したらそれぞれ全国の店舗へ散り散りと配属となるので、この研修だけが、同期との交流になる。普段の職場に同期がいない分、僕は同期に会えるのを楽しみにしていた。
 滅多に着ないスーツを身にまとい研修先に向かう。研修先が近づくにつれて僕の心はざわついた。最後に会った元彼女の家へ向かうルートと全く同じだったからだ。着いた研修先は元彼女の家と道路を挟んだ向かい側だった。
 僕はすぐにこれは運命で、神様がもう一度何かチャンスをくれたんだと思った。人間は運命という言葉が好きだ。自分に都合の良い出来事を全て運命にする。そして僕もまたそういう人間だった。
 僕はこの運命をすぐに元彼女に連絡しようとした。もう会わない、連絡しないと覚悟を決めたにも関わらず。

研修先の席に着くと真っ先にLINEを開いた。

「よろしくお願いします。」

 その一声で僕の元彼女へのLINEは妨げられた。隣に現れたのはスーツ姿の女性、すなわち僕の同期が、にこやかに声をかけてくれた。
 その目はとても澄んでいて僕は一瞬で惹かれてしまった。一目惚れという言葉は一目見て惚れたという言葉であるけれど、僕はその優しいまなざしに吸い込まれて包まれた。まるで魔法をかけられたようなそんな気がした。

 軽く挨拶を交わした僕ら。そのまま研修は進み、業界の動向やら、目標設定やらをし、ときにはグループワークでの意見の交換があった。滅多に会えない同期とは会話が弾んだ。こんな最悪なお客さんを接客しただとか、上司の愚痴だとか、休みの日何してるかなどのたわいのない話までたくさん話した。
 研修が終わり、僕はその隣に座った同期、藤山凛華ともう1人の女の子の同期、金谷玲と一緒に電車で帰った。
 
 「私、今最悪なんだよね」

 玲は浮かない顔で唐突にそう言った。

「3年付き合った彼氏に1週間くらい前に振られてさ、めちゃくちゃ好きだったからさ」

「えええ、そうなの?大丈夫?」

 凛華が心配そうに玲に声をかける。

 「うん、なんとか、、」

 玲子の気持ちを察すると胸が痛かった。1週間前に振られたことを想像するとそれは耐えられるものではない。

 「私も実は今彼氏と喧嘩してて2週間くらい連絡してない。旅行も行く予定なのに。このまま別れちゃうかも。」

 凛華は玲を慰めるように、そして自分も他人事ではない状況に立たされていることを再確認するように言った。

 僕は凛華に彼氏がいることに、肩を落とした。凛華が元カノへのLINEを阻止したことで、勝手に凛華のことを、元カノを忘れさせてくれる、過去にしがみついて前に進めてない僕を救い出す救世主だと思ってしまったのだった。そう、またしても都合よく運命だと思ってしまったのだ。しかし現実はひたすら残酷だった。

 葉川くんは彼女いないの?そう聞かれたが、いないよとしか言えなかった。そうこう言っているうちに、玲が先に降車し、しばらく駅を挟んで、僕が降りた。

 神様は意地悪だ。そんな風に思いながら今日起こったことを振り返った。そして少しだけ、凛華が彼氏と喧嘩していることを思い出して、そのまま別れてしまえと思った自分を心底嫌った。

 数日後、僕は研修の提出物の件で凛華にLINEした。そこから、僕と凛華は毎日LINEをするようになった。毎日一回のターンで5つくらいメッセージを残す。そしてそれは一日1ターンのときもあれば、3ターンくらいのときもある。このやり方は完全に凛華のやり方だった。僕はそれに合わせるようにLINEをした。
 そして、僕らはすぐに2人で飲みに行く約束をした。彼氏との仲は戻ったらしいが、彼氏がいるのに男と2人で会うのはどうかと思う。そして彼氏がいるのことを知っていて、会おうとしている自分自身のことも罪悪感がモヤモヤと残る。けれど、僕らは友達で、同期で、唯一の心許せる同期だと考えると、とても大切な存在になる。仕事の愚痴をいつも優しく聞いてくれる凛華はかけがえなかった。僕は頭の中で悪いことは何一つしていないと言い聞かせながら関係を保っていた。

 「集合場所はみらいおんで」

 誰もがみらいおんを知っているかのように凛華は言うが、ほとんどの人が新宿駅に建つ謎のライオンの像を知らない。凛華はそこにちょこんと座っていた。その晩は2人で少し高いお店でお酒を飲んだ。

 それから僕らは1年間、毎日LINEをし、1ヶ月に一度くらい会って、食事に行ったり、お酒を飲んだり、ダーツに行ったり、ドライブに行ったり、神社に行ったり、こう思うと意外とたくさんの所に行っているのだが、僕らは決して付き合っていないし、凛華には彼氏がいる。そして僕がそういった気持ちを出した瞬間、僕らの関係は崩れ、僕は罪人になるのだ。自分のせいで全てが終わってしまうのが死ぬほどこわかった。

 僕は苦しかった。最初から凛華には彼氏がいると分かっていた関係。友達であり、同期であるだけ。これ以上のことは何もない。
 そう言い聞かせているのに、会うたびに僕は凛華に惹かれていた。そして、もう会ってはいけないんじゃないかと自分に言い聞かせる。けれど僕にとっては、同期としても大切な存在だった。仕事のことを話せる人は凛華しかいなかった。この関係が崩れるのがこわくてたまらなかった。人は好きになると勝手に心の距離を測るものさしを持つ。好きの度合いが強まれば強まるほど、それは精密なものさしとなった。


「あなたがいいと思ったものは全部いいものだよ」

 2人で飲みに行ったある日、僕は凛華に言われたこの言葉が忘れられなかった。凛華は美大出身で写真専攻であったので、僕は凛華にどういう写真がいい写真なのか教えてと聞いたのだった。

 何がいいかなんて自分で決める。凛華の力強い生き方がそこには込められていて、僕はその言葉がとても好きだった。

 「今の彼氏とは結婚する気にはなれないかな。でも別れる理由がないんだよね」

 普段あまり彼氏の話をしない凛華はある日そんなことを言った。僕には凛華と彼氏の仲の良さがよくわからなかった。でもあまり2人の仲に首を突っ込みたくない、突っ込めば突っ込むほど、自分がいけないことをしているような気がするのが怖かったから。

 そうこうしているうちに凛華と出会ってから1年が経った。LINEは今も毎日続いていた。未だに凛華は彼氏と付き合っていた。

 久しぶりに2人でご飯に行く約束をした。待ち合わせ場所で待っている凛華はとても綺麗だった。
 相変わらず会うと仕事の話が多くなってしまうが、2人とも色々溜まってるので話を聞いてくれる存在がいることはお互いにとってありがたかった。

 ご飯を食べて買い物も済ますと凛華は何も気にせず、水族館に行こうと言い出した。

 こんな、まさにデートといったような一日を過ごしていいのだろうかと思ったが、気にしたら最後、それを悪いことだと思ってしまえば悪いことになるのだ。

 もう僕は凛華のものになりたかった。そして凛華を僕のものにしたかった。凛華の彼氏の気持ちも考えずにこんなことをしてる僕らは最低なのかもしれない。でも僕には大切は存在なのは確かで、失いたくない。胸の奥がきゅるきゅると痛んだ。

 「じゃあ、またね。気をつけてね」

 僕はこうしてまた、凛華にはもう会わない方がいいのではないかとそう思ってしまう。

 運命などはこの世にほとんどない。起こりうる現実は素晴らしいものもあればほとんどは残酷だ。そして僕らはその素晴らしい都合のいいものだけを見て運命だと思いたいのだ。

 人を好きになることは希望であり絶望だと思った。

  凛華と別れ、家路につく。写真に残していない分、思い出したい記憶、匂い、声はどれもとても甘かった。脳内にその甘い記憶を巡らせていることを"恋焦がれている"と気付いてしまったのを感じて、胸の奥が甘くふるえた。

 トゥルン

 1通のLINE。見慣れたアイコン。

 僕はそっとスマホを布団の奥に投げる。


 あぁ、今日からどう生きていこう。





あとがき

はじめまして火花と申します。この度私の小説、短編集と言っていいのでしょうか。文字数がかなり少ないこの拙い文章達を読んで頂きありがとうございます。

noteをはじめて1年が経ちました。note創作大賞の存在を知り、本気で一本の小説を書こうと試みたのですが、そんな技量などなく、過去の文章達を集めてみました。集めても2万字にもいかず、10万文字をも書く小説家さん達を尊敬するばかりです。

タイトルのbeautiful messは美しい混沌という意味です。この世界は常に混沌としています。しかしこの混沌を美しいものだと私は思いたいです。この文章達は実際に経験した体験をもとに書いたものがほとんどです。1人でキューバにも行きました。トルコで淡い恋もしました。たくさん失恋も経験しました。
私が小説を書くのは、誰かの心を少しでも軽くしたい、その一心で書いております。
「どんな悲しい経験も同じ経験をした人の心に寄り添えるならそれは財産になり得る」
これが私のモットーです。

この度は読んで頂きありがとうございました。
これからも文章を書いていきますので、よろしくお願い致します。








この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?