違いにリスペクトを
初めまして。
23年4月からヘラルボニーに仲間入りを果たしました、朴 里奈(ぱく りな)と申します。
ヘラルボニーではBtoBのアカウント部門で主にクリエイティブ領域の担当をしています。
ヘラルボニー入社前に無我夢中で読み漁った note の入社エントリーを書く側になった今、何をどう書けば良いのだろう・・・と頭を抱えております。
というのも、実は別の文章を一度提出したのですが、また最初から書き直しました。
もしかするとこれまでの入社エントリーとは質感が異なるかもしれません。
厳しい声もいただくかもしれません。
けれども、ヘラルボニー入社に至る最も大きな理由であり、人生において無かったことにはできない事柄だったので、ありのままに書かせていただきます。
勇気を出して書いたので、少しでも多くの方に最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
第一章 プロローグ
1991年の暑い夏の日、朴家の長女として生まれてきました。
他の子と比べて、髪の毛がなかなか生えてこず、よく男の子と間違われたそうです。
ユーモアたっぷり人気者の父親、料理上手でファッションモンスターな母親、オタクで雑学王の兄、寡黙で正義感の強い弟。
奇跡の全員B型家族です。
みんなそれぞれ好きなことに一直線な家系だったので、小さな頃から好きなことに挑戦できるように、遊びでも習い事でも何でも、さまざまなことをさせてもらえる、今考えるととてもありがたい家庭環境でした。
幼少期はバレエにダンスにお絵描き教室と、気付けば芸術系の習い事を多くしていました。
バレエとダンスは母親の薦めで始めたのでどことなく、先回りして期待に応えなければという思いが働いていましたが、お絵描き教室は純粋に楽しかった記憶が強く残っています。
先生が生徒のレベルに合わせて写真を渡し、その中から好きな写真を選んで模写するという授業スタイル。それに加えて、夏休みなどの長期休暇のときは先生の自宅に行って、風景を写生するなど楽しいイベントごともありました。
「目に見えるものは全て色が混ざっている。自然から生まれるものに単色はないから、空や植物、人間を描くときは色は必ず混ぜて使うようにね」と先生の教えは今でも胸に刺さるものがあります。
絵を見て感動をしたり、悲しい物語の絵本を読んで泣いたり、嬉しいことは体いっぱいで表現したり、一方でできない自分に苛立ったり、とにかく感受性が強い子どもでした。
第二章 過去
名前を見てお気付きの方もいるかと思いますが、私は韓国・朝鮮にルーツを持つ、在日コリアン4世です。
※在日コリアンとは日本の朝鮮植民地支配によって渡日し、戦後はさまざまな事情で朝鮮と日本を行き来し、現在、生活基盤を築いて日本社会に定住している人々です。
曾祖父が韓国・釜山から日本へ仕事の関係で来たのをきっかけに家族代々、日本で生まれ、暮らしています。
特別永住者という在留資格を持っていて現在も韓国籍です。
選挙権はありません。
お母さんはオモニ、お父さんはアボジ、お兄さんはオッパと会話の所々はウリマルで、食卓にはいつもキムチが並んだり、行事では韓国の伝統服であるチマチョゴリを着たりと、物心ついた時から自分はみんなと何かが違うことに気付いていました。
※「私たちのことば」を意味する「ウリマル」は南北共に使われている言葉。
なかでも、周りのみんなとの違いに気付いたのが名前、苗字です。
実は生まれてから社会人になるまで、苗字はパクではなくボクでした。
※本名はパクで、日本語読みにするとボク。
「女なのになんでボクなの?変なの」と小学校のクラスメイトにからかわれることもあれば、「ふざけないで苗字を教えて」と迷子センターの大人に言われたり、とにかく、この苗字が恥ずかしくて、苗字を呼ばれるのも、自己紹介をするのも嫌いでした。
「苗字を変えてほしい」と両親に懇願したこともあったほど、幼少期はそれなりにしんどい思いをしていましたが、小1の時に見かねた担任の先生がホームルームの時間に私を膝の上に乗せて、クラスのみんなに違いについて説明をしてくれました。
一言一句は覚えていないのですが「名前をからかわないでほしい」「名前は大事な宝物」そうやって説明してくれたことは確かです。
それからはからかわれることも減り、開き直って小4の人権週間で「キャベツも差別もみじん切り」というスローガンを発表し、銀賞をもらいました。
自分なりにユーモアに変えて表現したかったのでしょう。
ただのダジャレですが当時、両親が考えられないくらい褒めてくれたのも覚えています。
このままご機嫌に小学校を卒業できると思っていたのも束の間、あれは忘れもしない小6のクリスマス。
クリスマスプレゼントはタイピング機能しかなかったパソコンにインターネットを開通してもらうことでした。
友達とのメール交換を楽しむ傍ら、「在日」という言葉を検索してみたのが最後。
2ちゃんねるの掲示板で目にしたのは差別的な書き込みの嵐でした。
「自国に帰れよ」
「不法滞在者が権利を主張するな」
「チョンは死滅しろ」
※チョンとは朝鮮人を表す蔑称
など
どんなにスクロールしても誹謗中傷の言葉は止みません。
存在そのものを否定されるような発言も沢山あります。
自分は社会から差別の対象なんだと、小さな体と心で現実を受け止めるのはまだ早すぎました。
また悲しくて悔しい現実なのですが、この時から約20年が経ちますが何も変わっていません。
「在日コリアン」とTwitterで検索してみてほしいです。
中学に入ると拍車をかけるように連日ニュースで流れる、北朝鮮の拉致問題。
被害者も加害者も私と同じ苗字を持つ人たち。
「祖国帰れよ」
「日本から出ていけよ」
面と向かって心無いことを言われることも増え、次第に在日コリアンであることへのコンプレックスが強くなっていきました。
また、同じ時期に高校2年生だったオッパ(兄)は理由もなくクラスメイトにキムチを投げられて鼻の骨を折り、校内で大問題になりました。
一生この差別と共に生きていかないといけないのか。
だとしたら、この社会で生きていくことはストレスでしかない。
子どもながらに大真面目に思っていました。
自分の居場所を探して、同じバッググラウンドを持った多くの子達が通う民族学校に転校したいと何度も両親にお願いをしましたが、やりたいことをなんでもやらせてくれた両親は日本学校に行かせることに頑なでした。
後々知ったことですが、個人差はあるものの、両親が2人とも民族学校の出身で大人になって苦労をした分、その苦労を子どもたちに経験させたくなかったそうです。
民族学校に通わない代わりに在日コリアンのコミュニティに参加して、日本学校に通う友人ができたり、サマーキャンプで先輩たちに遊んでもらったり、ハングルを教えてもらったりと、この交流体験は後の自分のアイデンティティ形成において重要な出来事となりました。
「マイノリティ」という言葉を知ったのも中学3年生くらいの時で、同時に在日コリアンの他にも人種、性別、出身地、またセクシュアリティ、障害など、属性などに基づく社会的蔑視や差別があることも知りました。
なんでマイノリティの私たちが差別を受けないといけないんだ、と常に社会に対して怒っていましたし、この怒りのパワーが自分を奮い立たせる原動力であったと今では思います。
大学進学時、家を借りるときに「外国籍はお断り」と言われたり、アルバイトも「外国人は保険が効かないからだめ」と聞いたこともない理由で面接も受けさせてもらえなかったりと、生活拠点は変わっても常に差別とは隣り合わせでした。
ですが、そんな自分を心から応援してくれる人の存在や、同じ境遇の人たちの活躍を通して、自分に誇りを持つことを忘れませんでした。
自分のアイデンティティは自分で守る。
つまらない社会に絶対加担しない。
差別をしない。
違いを認めリスペクトする。
とても大切にしてましたし、大切以上に当たり前に自分のアイデンティティとして刷り込まれていました。
そして、大学卒業の社会人になるタイミングで苗字をボクからパク読みの本名に戻しました。
家族間でも読み方を変えられるみたいで驚きましたが、「ありのままで生きる」というある種の宣言だったのかもしれません。
第三章 現在
新卒で入社したセレクトショップBEAMSではこれまでとはうってかわって、在日コリアンということに一度も負い目を感じたことがないくらい、お互いの個性を認め尊重し合う社風でした。
ファッショナブルでかっこよくて、尖っていて愛らしい人たちに囲まれて刺激的で楽しい毎日。
年齢とキャリアにしては申し分ないほど、たくさんのチャンスと経験を与えていただき、人として大きく成長させてもらえる、身に余るほどありがたい環境でした。
ようやく掴んだ安定的な幸せ。
このまま順調にBEAMSでキャリアを積んでいくのだろうと思っていましたが、ヘラルボニーと出会って、その考えが一気に変わりました。
ヘラルボニーが作っているモノ、やっているコトがとにかくかっこいい。
ヘラルボニーから出る新しい情報が気になって仕方がない。
同い年の両代表に、働いている人たちに会って話を聞いてみたい。
社会や会社、スケールが大きくなればなるほど自分の信じる声や言葉を見つけ出す難しさを感じているなかで、だからこそ、自分の目で見て耳で聞いて、心と体で感じたい!
考えるより感じることを大切にした結果、気が付いたらヘラルボニーの船に乗っていました。
ずっと心のどこかに引っかかっていたこと。
生涯をかけて、マイノリティの人たちの為になることをしたい。
そうすることで自分を救いたい。
誇れる自分でありたい。
でも、一人では実現できないと思っていました。
そんなことを悶々と考えていた時にたまたまヘラルボニーを知りました。
この出会いは必然だったのだと思っています。
入社前に行かせてもらった京都にある福祉施設は想像を遥かに超える、面白い場所でした。
面白いという表現が正しいかは分かりませんが、人は全員違うからこそ面白いし、尽きない。
言葉のコミュニケーションが苦手な方もいるけど、私たちが諦めなければ、心をシャットダウンしなければ、障害のある方たちとも気持ちを通じ合うことはできる。
もはやコミュニケーションに障害がある、ないは関係ない。
この場所は大きな声も出していいし、飛び跳ねてもいいし、走り回っても、何度も握手をしたっていい。
自分のアートが商品になったことを喜ぶ人もいれば、そんな事はどうでもよくて、ひたすら目の前の作業に集中する人もいる。
ドッキリ大成功が好きで隙あらばドッキリ大成功のプラカードを出す人もいて、終始ツッコミどころが満載だけど全部ひっくるめて愛らしい。
もともと福祉に対して、特別に関心が高かったわけでもなく、福祉施設は保護をする場所、とそんなイメージを少なからず持っていました。
受け止めたくなかったけど、差別の実体験がある私でも無意識の差別をしていました。
でも、一度体験してみて分かる。
今まで想像していた福祉の現場とはまるで違う。
「福祉の現場を面白がる人がいてもいいんだ」と思ったのです。
また、施設の職員さんと丁寧にやり取りをされているヘラルボニースタッフの姿を見て、少しアナログだけどもこの手触りが良い。この信頼関係がヘラルボニーを作る大事な基盤なのだと感じました。
東京に戻ってからもヘラルボニーのことが頭から離れず、日を増すごとに魂は動かされて、大好きだったBEAMSを離れる迷いのない決断に至ることになります。
第四章 未来
ヘラルボニーに入って1ヶ月が経ちました。
ヘラルボニーメンバーは違いを尊重できるというのが根元にあるので、安心して意見やアイディアを共有できる、夢のような環境です。
日々、メンバーの人柄や感性に触れられることが何より楽しくて嬉しいですし、異彩作家(=障害のある作家)のアート性だけではなく、日常の営みを大切にしている姿勢にも学ぶことばかりです。
これまでの人生の中で経験した、良いことも嫌なことも、培ってきたこもと、大切な人との繋がりも、全てをエンジンにして、ヘラルボニーがしていることは、ただのソーシャルグッドではないということを、異彩作家の素晴らしい才能と日常が価値になるということを、みなさまにクリエイティブの力を持ってお伝えしていけたらと思っています。
差別という言葉はなくならないかもしれないけれど、その人の人種や障害ではなく、美しいもの、かっこいいもの、その人の人間性が評価されるとき、そこに社会的な価値がついてくれば、間違いなく社会の見方は変わるはず。
私はマイノリティの当事者であり、声をあげられます。
声をあげるのはとても怖いことです。
またひどい言葉を言われるのではないかと、過去のトラウマを思い出してしまうから。
けれど、私は声をあげられない人の分まで、諦めずに社会に向き合っていきたいです。
もう怖くはありません。
なぜなら、ヘラルボニーの仲間がいるから。
異彩作家のみなさんがいるから。
そして、資本主義と愛は絶対にイコールになることを人生を賭けて証明していきます。
ヘラルボニーに関わる人が幸せで溢れますように。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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