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2021年8月の記事一覧
螺旋階段の階層から。
ぼくのブログでは、主に、ぼくの
興味のあることや考えたことを書いている。
とは言っても、ぼくの思う
興味のあることや考えることってゆうのも、
そんなにひろい範囲のことでもないから、
同じような内容を、何度も、何度も、何度も、
ブログに書くことも、多々、ある。
同じ内容を何度も書く、ってえのもさ、
以前に書いたと思いながら書く場合もあれば、
以前に書いたとも思わずに書く場合もあるけど、
それは以前
REMとシャングリラ。
ぼくのブログは、たいていの場合、
その日のブログを書き終えてから、
あしたは何を書こう? って考えながら、
翌日をむかえて、前日に考えたことを、
ブログで書く。みたいな、ブログだ。
なんだか、まいにち、まいにち、
「あしたのブログは何を書こう?」
って考えているようだ。
ぼくのブログでは、たとえば、
「前回noteでは、」や「さくじつのブログでは、」って
書くことが多いように、前日の内容から
考えるも、休むも、悩むも、ぼーっとするも。
「下手の長考、休むに似たり」ということばを、
聞いたことがあるけれども。
考えているときも、休んでいるときも、
悩んでいるときも、ぼーっとしているときも、
はたから見れば、その姿は、
おんなじようなものかもしれないな。
そんなような、
考えるも、休むも、悩むも、ぼーっとするも、
頭の中では、なにかしら、思っていて。
その、なにかしらを思いながらの、
考えたさきには、休んださきには、
悩んださきに
過去形の「考える」、現在進行形の「悩む」。
考えても、考えても、考えても
わからないとき、ってゆうのは、
それは、考えることをしていなくて、
ただ、単に、
悩んでるだけなのかもしらない。
ともすれば、
「悩む」から「考える」へと、みたいにして、
じぶんの考える方法を変えてゆけたら、
これまでどんなにわからなかったことでも、
たちまち、わかるようになるんだろうか。
でも、そんなような、
「たちまち」とは言ってもさ、
どれだけの時間や労力が
1995年のJシーンと、じぶんの無知さ。
このごろは、
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文さんが
ゲスト出演されたのをきっかけで知りました、
三原勇希さん×田中宗一郎さんがホストをされる
「POP LIFE: The Podcast」というポッドキャスト番組をね、
すこしずつ、聴いているのですが。
4月23日公開の「第157回&第158回」では、
「1995年の音楽」についてお話しされていて。
1995年と言
引き継がれるようにして。
先日のブログでも申しました、
2014年発行の内田樹さん著『街場の戦争論』では、
司馬遼太郎さんが「ノモンハン事件」について
小説を書こうとして、ついには書くことはかなわなかった。
とのように記されていて。あらためて、
内田さんのおっしゃるこの部分を読みながら、
ぼくは、また、あらためて、
村上春樹さんの小説『ねじまき鳥クロニクル』での
「ノモンハン事件」の描写のことを思い出していた。
そう言わ