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「浅める」のこと。

いつごろでしたか、糸井重里さんが、
「浅める」ということを書いておられて。
つまりは、物事を、
「深める」のではなくって、
「浅める」のは、どうだろうか。と。

ふつう、「深い」ことは、
よいことだ、みたいな風潮があって。
たとえば「感慨深い」とか「味わい深い」とか、
「これ、ふかいわー!」とか、って、
ぼくも思ったりもするけれども。
「深い」ことが、よいことなのかどうか、
ってゆうのもさ、よくわからないなあ、と、
なんとなく思っていたところもあったので、
糸井さんの「浅める」ということばが、
つよく印象に残っているのですが。

先日刊行されました糸井重里さんの著書
『こどもは古くならない。』では、この
「浅める」のことばが掲載されていて。
書籍より引用をいたしますと、、

深く深く突っ込んでいくと、だいたい行き詰まる。
そして、息詰まっていくのだ。
答えに関係ないところまで深く深く掘ってしまう失敗は、
世の中のあちこちにたくさん見つかる。
つながりもなく、栄養もなく、ただ暗く深くなる。
これは、ほんとうに不毛なんだよなぁと、ぼくは思う。
昨日、ある打ち合わせで、ふと、ぼくが言った。
「その問題、深く深く掘っていくと、
 切りもなくわけわからないところに行きそうなので、
『浅めたら』どうでしょうね、深めずに」
ついダジャレのように口をついて出たことばなのだが、
言ったぼく自身、かなり気に入ってしまった。
問題を、「浅める」ということを、意識的にやろう。
(糸井重里さん著『こどもは古くならない。』75頁より引用です。)

深く深く掘ることは、
つながりもなく、栄養もなく、ただ暗く、
息詰まるかのごとく、不毛である。
というのも、でも、なんだか、
どことなく、わかるような気がする。。。

ぼくの感覚としてはさ、どうしても、
深いところまで潜らなければ、つまり、
深く潜るようにして考えなければ、
その先が、無い、みたいなときは、
「深い」というのも大事なのやもしれない、としても、
たとえば、なにかの作品の鑑賞の感想として、
その深さまで潜らないと本質を掴めない、的な鑑賞は、
あまりにもシリアスで、
疲れてしまう、とも感じられるし。
そう思ってみれば、深さだけが、
価値でも無いのかもしれないな。

ぼくは、でも、けっこう、
深く、の方向へ行きがちでもあるからこそ、
深めずに、ぎゃくに、浅める、のこと、
意識できたらなあ、と思っている〜。

令和3年8月31日


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