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自明の所与。

太平洋戦争の敗戦によって、この今の生活が、
どのように影響されているのか?
というのは、もう、今となっては、
ぜんぜん、わからない。

1982年に生まれたぼくは、
いつごろ戦争のことを知ったかは、
さだかではないけれども、
戦争が、かつて、この地で起きていたことを
知らされるまで、聞かされるまで、
戦争があったことに、
まったく気がつかなかったぐらい、
戦争の時代は遠くなっていた。

でもそれは、もしかしたら、
目に見えている「見た目」だけのことで。
ほんとうは、もっと、もっと、
どうしようもないほどに、たとえば、
街とか、山河とか、暮らしとか、さらには、
考え方とか、気持ちとか、心とか、という、
あらゆるものが、戦争の敗戦によって、
影響されている、というのもね、
このごろ、思うようになって。

先日のブログで申しました、
内田樹さんの著書『街場の戦争論』では、
「もしも一九四二年にミッドウェー海戦の後に
 日本が講和を求めていたら」(36頁より。)
という仮定を挙げられているのですが。
もしも、そうだったとしたら、
ともしても、でも、ぼくには、
想像はできがたいけれども。

たとえば、著書の中で内田さんは、
戦後文化について、
「映画」と「マンガ」の復興は早かったが
「文学」は時間がかかった。
のようにおっしゃっていて。つまり、、

たとえば、「戦後文学」は僕たちの知っているものとはずいぶん相貌を異にしていたはずです。生きていれば「戦後文学」を担うはずだった人々が、あるものは死に、あるものは深いトラウマ的経験ゆえに「書けなかった」という歴史的事実を僕は言っているのです。つまり、僕たちは「あったかもしれない戦後文学を失った」ということです。
(内田樹さん著『街場の戦争論』ミシマ社、82頁より引用です。)
戦後日本で最初に文化活動を担ったのは、明治生まれの映画人たちと昭和生まれのマンガ家でした。大正生まれの作家たちがここには抜けている。
(同著、86頁より。)
僕たちは芸術ジャンルの消長と政治史の間には何の関係もないと思われがちですけれど、そんなことはありません。僕たちにとって自明の所与と思われている戦後芸術ジャンルのかたちでさえ「もし一九四四年以前に講和していたら」まったく違ったものになっていた可能性がある。僕たちは「ないはずのものがある」ことには比較的すぐに気づくけれど「あってもいいはずのものがない」ことにはなかなか気づかない。
(同87頁より。)
「戦後すぐに執筆活動を始めて、戦後文学を牽引した大正生まれの作家たち」という「あってもいいはずのもの」がない。この人たちがもし生き延びていたら、戦後日本の知的風景は僕たちが知っているものとはずいぶん違っていたものになっていたかもしれない。そういう想像力を駆使して、「あったはずのもの」の大きさに愕然とすることもときには必要ではないかと僕は思うのです。
(同88頁より。)

今読むことのできる、
戦後からの日本の「文学」も、
戦争によって影響されながら、
今に至る。のやもしれない。

という、そのように考えてみれば、たぶん、
文学や文化のことだけでなくって、
あらゆるところで、つまりはさ、
 ぼくが気づけないようなものごとでも、
影響や変化があって。
ほんとうはさ、それらの側のほうが
「あたりまえ」だったものが、
この影響や変化によって、もはや、今のほうが
「あたりまえ」になっている。
とも言えるのだろうな。

それは、日本だけでなく、おそらく、
世界中の国々でそうで。
そんなふうに思えば、こう、なんだか、
声も出ずに、ことばも出ずに、
もう、祈るしかない、と感じられる。

令和3年8月19日


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